衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月02日    月曜日     第4 回の開示 合計2758回の開示

雑阿含経(二九三)その一

(一)原文:如是我聞。一時、仏は王舎城の迦蘭陀竹園に住したまえり。その時、世尊は異なる比丘に告げたまわく「我はすでに疑いを度し、ためらいを離れ、邪見の刺を抜き、再び退転することなし。心に執着なきが故に、いずくにか我あらんや。彼の比丘のために法を説き、彼の比丘のために賢聖の出世間空に相応する縁起随順の法を説く。すなわちこれあるが故に彼あり、これあるが故に彼生ずると謂う。縁無明より行あり、縁行より識あり、縁識より名色あり、縁名色より六入処あり、縁六入処より触あり、縁触より受あり、縁受より愛あり、縁愛より取あり、縁取より有あり、縁有より生あり、縁生より老死憂悲悩苦あり、かくの如く純大苦聚が集まる。乃至かくの如く純大苦聚が滅す」

釈:世尊は他方より来たる比丘に告げたまわく「我はすでに全ての疑いを滅尽し、解脱法に対する躊躇を離れ、邪見の刺を抜き去りました。菩提道に退転せず、心に住する所なきが故に、いずこにも我あるを見ずして、それらの比丘たちのために法を説き、それらの比丘たちのために賢聖たちが証得した出世間の空に相応する縁起随順の法を説きます」縁起法とは、これあるが故に彼事が現れ、これあるが故に彼事が生起することを指します。

これが十二因縁の法であり、無明あるが故に行が生じ、行あるが故に識が生じ、識あるが故に名色が生じ、名色あるが故に六入が生じ、六入あるが故に触が生じ、触あるが故に受が生じ、受あるが故に愛が生じ、愛あるが故に取が生じ、取あるが故に有が生じ、有あるが故に生が生じ、生あるが故に老死憂悲苦悩が生じ、かくして生死の大苦が聚集します。修行により生死の大苦聚が滅尽するに至ります。

「疑いを度す」とは仏がすでに無明を断じ尽くし、一切の疑問がなく、心に明確に一切法を了知し、世間諸法の道理とその実相を知り尽くしたことを意味します。衆生はまだ疑いを度しておらず、無知多く、事相に執着するのは全て無明に起因します。無明の範囲は広大で、衆生の知らざることは塵数の如く無量です。

無明には三種あり:一念の無明、無始の無明、塵沙の無明。悟りを開いた後も、成仏の道程において知らざること塵沙の如く存在します。等覚菩薩ですら一念の無明を残し、尽くして初めて仏となります。長く無明に住するとは暗黒に住するが如し。根本の邪見は我見にあり、我あるが故に一切の煩悩が生じ、我見を断てば他の邪見も次第に断じます。世尊は我々のために邪見の刺を抜き、一切の不正見を断じ尽くされました。無明あるが故に邪見あり、悟り後もなお邪見を残しますが、成仏して初めて邪見なき境地を得ます。

——生如法師の開示
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