修行の過程において、少しずつ意根の無明を滅し、煩悩を滅し、我執を滅していくならば、意根が三界に心を留めなくなり、三界の法は滅し、最後に意根は必ず滅して無余涅槃に入り、寂静で清涼なる境地に至ります。無明は生死輪廻の根本的な原因、主因であり、無明が滅びなければ意行は絶えず、三界における貪欲も絶えず、生死の苦しみも絶えることがありません。しかしながら衆生は生死の苦しみに慣れ、長く糞坑にいれば臭さを感じなくなるように、生死が大いなる苦しみであると悟らず、生死の中に大苦があるとも思わず、生死に貪り執着し続けます。衆生が覚りを求めない時、仏が来たとしても救うことができないのです。
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