衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月02日    月曜日     第2 回の開示 合計2756回の開示

事修と理修の関係

一切の法は事と理の二つに分けられる。事とは相のことであり、理とは如来蔵の理体である。事を論じる際には、相の上から相の実有性を破らなければならず、この時は理如来蔵の角度から説いてはならない。そうすると、ある者は相を実体あるものと誤解し、執着を生じて心が束縛され、解脱できなくなる。

小乗の法は全て相の上から有を破るが、大乗の法は理と事の両面から修行する。理の上から相を破り、理を認めれば良いが、同時に相を廃することなく、理に執着して事を廃するようなことはしない。理と事が円融一体となることを求め、いずれかに偏ってはならず、そうでなければ仏法は成就しない。

究竟まで理と事が円融した境地に至ればそれが仏である。理と事が円融していても未だ究竟でないのは地上の菩薩と等覚・妙覚の二覚である。明心後の菩薩はわずかに円融できるかもしれないが、観察力が備わっていなければ全く円融できない。

証果を得ず明心もしていない者に、五陰十八界の法や世間の一切の法が不生不滅であると説けば、彼らはこれを実体あるものと受け取り、これらの執着に誤りはなく何も悪くないと考えるだろう。そうなれば貪愛と執着を滅する方法を求めようとせず、衆生の生死の問題は解決できなくなる。

一切法が真如であることは地上の菩薩および仏の現量観行の結果である。凡夫は基礎的な五陰十八界の生滅相から一歩一歩修行を積むべきで、直接五陰十八界を不生不滅の真如として扱うことはできない。この理を現量で観察できる者は誰もいない。

四禅八定は事修であり、相を修めることである。相には必ず生滅があり、不生滅の相は存在しない。第八識の空相を除いては、空相は無相である故に不生滅である。四禅八定における六識は相の上から見れば生滅変異するものであり、第七識も相の上からは生滅変異する。生滅変異する法を論じ、相を修める際には生滅変異の相が存在しなければならない。もしこの時に七識と四禅八定が全て不生不滅であると説けば、不自然なものとなる。既に全てが不生不滅で固定不変ならば、私たちに修行すべきものは何もなく、既に完璧であるはずだからである。

——生如法師の開示
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