衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月16日    金曜日     第5 回の開示 合計2712回の開示

定慧等持の参究方法

皆様に、速やかに禅定に入りながら観行を参究できる方法をご紹介いたします。これにより迅速に境地に入ることが可能となります。

例えば我見を断つ場合、五蘊における「我」が重要です。座中で「我とはいったい何か」を思量します。座禅時に腿を組み、呼吸を整えた後(通常は数回深呼吸)、任脈を暢通させ、頭脳を明晰に保ちます。そして「我」という一念を提起すると、まず意識心に「我」という概念が現れ、次にこの「我」を意根に伝達します。意根へ渡した後、意識の念いは次第に消え、心が空になったように感じられます。

しかし実際には心は空ではなく、意根が「我」を懸案として深く思量しています。それは捉えどころのない深淵な状態で、意識が動念せずに見守る中、意根における「我」の観念は次第に鮮明になり、心に刻まれたように定着します。こうして禅定が生じ、一心不乱に「我」を参究する状態となります。意識は消失したかの如く、意根の思量は極めて微細で持続的です。定力が増すにつれ、その深遠な思量を感知できるようになります。

この時、心は極度に静寂で「我」以外の念いは存在しません。深甚な禅定と観行が定慧等持の状態で調和し、身体は安楽、頭脳は明晰です。もし昏沈が生じたり無念の定に入りかけたりした際は、意識が再び意根に「我」を提起し、注意力を集中させます。一時間は瞬く間に過ぎ、座を立つ際には心身爽快で活力に満ちます。意根の思量結果が明瞭か否かに拘わらず、確信が生じ従来より理解が深まっています。明確な答えが得られない場合も継続して修行を重ね、満足のいく結果を得るまで精進します。

この方法に基づき、順次色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・六根六塵六識などの法義を思量します。あらゆる法義をこのように参究することで、根本的な疑いを断じ三縛結を滅します。意識の理解だけでは結を断てないのは、結が意根の無明に起因するためです。意根自らが無明を破らなければならず、意識の理解だけでは意根の疑いを断つことはできません。

たとえ苦刑に遭い耐え難い痛みで「我見を断った者ではない」と虚言しようとも、意根は信心と智慧の見地を失いません。たとえ命を絶たれても意根は堅固不抜です。退転は意識の問題であり、意根が獲得した智慧は外力で変容しません。衆生が無量劫にわたり生死を繰り返すのも我見未断の故です。意根で証果した者が容易に退転するはずがなく、もしそうなら成仏者が凡夫に戻るという不合理が生じます。思想が容易に変わるなら、我見断や成仏も容易なはずですが、三大無量数劫の修行が必要な現実がその矛盾を証します。

禅定中、意根は「我」の内包と外延を思量し、関連法義を貫通させ「我」の本質を明らかにします。膨大で深遠な内容を段階的に、表層から深層へ、狭義から広義へと探究を深め、最終的に「我」が明鏡の如く心中に顕現します。

修行初期、意根は思量者の役割に慣れておらず、意識が方向性を暗示する必要があります。暗示は控えめに、曖昧な形で行い、意根が専注すれば自然に明瞭さを増します。出定後、意識は意根の思量結果を整理し再確認します。

座禅中の修行法は日常生活でも適用可能ですが、注意力が分散するため同等の効果を得るにはより長い時間を要します。意根の疑情が深まれば、行住坐臥全てが修行の場となり、睡眠時さえも活用可能です。思想の脈絡が明らかになれば、意識の補助無しに意根単独で参究できます。

これが禅定中の参究による証悟の方法です。この実践により解悟を防ぎます。参究時、意識は学んだ法義の細部を意根に伝達せず、最終解答と見做さず、疑情を深く持つことが肝要です。「なぜか」という問いを重ね、意根に所以を究明させれば、法の因果関係が明らかになり証悟に至ります。

——生如法師の開示
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