衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年10月15日    木曜日     第4開示 合計2707開示

理事円融とは何か、事事円融とは何か?

仏法修証の最高の境界は、仏陀の理事円融、事事円融、事事無碍であり、すべて理に合い、理が事を顕し、事が理を顕し、理事は永遠に乖離しない。このようにするためには、仏法修証の最初の見道から始めて、終わりには最後の見道で成仏に至らなければならない。前後に見る道は次第に深まり、すなわち見る理がますます深細になり、事もそれに伴ってますます円融円満になる。最初の見道の時から、事は理に従って行われ、理がどこに行けば、事もそれに従ってどこまでも行き、乖離することなく、仏陀の最後の見道、明星を睹して道を悟るに至り、理が円満すれば、一切の事は直ちにそれに伴って円満となり、理事ともにもはや修めることなく、位は尊く無上の法王となる。

見道は理上の見と事上の見に分けられる。理見と事見にはどのような違いがあるのか。理上の見とは、理から理へと至るものであり、意識の層面において理を十分に認識し、理を明らかにするが、事はそれに伴わず、このとき事と理は乖離している。意根が見ていないため、定慧具足円融の三昧 (samādhi) の境界は現れず、事はそれに伴わない。事は意根によって掌控されるものであり、意識は事を随和円融にさせることはできない。

一方、事上の見道とは、事において理を参究し理を証することである。このように見道すれば、事は必ず理に合い、事は必ず理に従い、理事は必ず融合して一体となり、乖離しない。ここに至って初めて脱胎換骨し、洗心革面し、外見では人はまだその人であるが、心行から見ればもはや旧時の行履はなく、思想品質は一新され、心空無我であり、有為において無為を顕し、無為がまた有為のために働き、空にして空ならず、空ならずして空である。

だからこそ、真の見道とは、事において十分に参究を尽くした見理と入理であり、事が理に従い事が理を顕す証理であり、理事は分かたず、三昧 (samādhi) が相随する。理事が融合しても、必ずしも円融とは限らず、必ずしも無碍とも限らない。理が徹していないからであり、理が徹すればすなわち成仏である。事において理を見ることは、すなわち証得であり、事において理を見なければ、証ではない。もし理がただ理のみで、事と融合しなければ、この理は事を解決できず、事を解決できない理には実用がない。だから、理のみを知り、事において理を見ず理を顕さなければ、それは実証ではない。

——生如法師の開示
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