意根(マナス)による業の形成と意識(ヴィジュニャーナ)による業の形成の違いを区別するには、その業が意根の心行(心の作用)に適うか、意識の心行に適うかを観察しなければならない。一般的に、意識によって形成される業行は全て意根に帰属する。なぜなら意根が意識に業を造作させているためであり、意識が造る業は即ち意根が造る業である。意根が意識に業を造作させなければ、意識は業を形成できない。これが通常の場合である。
更に別の状況として、意識の力が極めて強く、意根を転換させ、意根に意識の考えに従って業行を主宰させる場合がある。この時、意根は意識の意志に従って選択をせざるを得なくなる。この場合、意根が主宰して造る業は意識の心行に適う。意識が事柄の道理を理路整然と分析し、十分な理由を示すことで、意根を転換させるのである。
この時、意根の力が意識に及ばず、意根は意識の思考に従って決定する。表面上は意根が主宰しているが、実質的には意識が主宰しており、身口意の行為が意識の心行に適う。この業は意識を主体として形成された業である。もし意根が完全に意識に説得され制御され、意識が「これが良い」とすれば意根が完全に同意する場合、意根が六識に造作させる業は意根と意識が共同で形成した業に属する。
もし意根の力が意識を上回り、意識の観点・意見・見解を意根が全て認めない場合、意根は必ず自らの心意に従って主宰的に選択し、表出する行為は意根自身の習気に適う。意根が六識に造作させる業行は意根自身の心行に適い、この状況は意根が形成した業に属する。
この分類は複数の層に分かれており、我々が想像する表面的な行為ほど単純ではない。具体的な状況に応じて分析を要する。業行が意識の心行に適うか、意根の心行に適うかを観察するには、次の観点から分析を進める必要がある:意識と意根の心行が一致しているかどうか。心行が一致する時、第六識と第七識は同等に善、あるいは同等に不善であり、この時造作される業行は両者共通の心行に適う。一致しない場合は、意根を主体とする業か、意識の心行を主体とする業かを判別し、具体的状況に基づいて区別しなければならない。
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