例えば憨山大師が蘇東坡の遺品を見て、非常に親しみと懐かしさを覚えた。これは意根から伝えられた情報を、意識が弁別して生じた感覚である。この弁別は漠然として確定的なものではないが、感覚そのものは極めて鮮明で、意根が意識にもたらしたものである。もし意識に智慧があって意根の思惑をさらに識別すれば、より詳細で正確な情報を知ることができ、単なる親しみや懐かしさを超えた感覚を得るだろう。そうなれば意根は自らの思惑を満たし、さらに進んだ考えや行動を起こす可能性がある。
例えば乙が陰で甲の悪口を言い続けても、甲の意識は知らないが意根は感知している。甲が乙に会う時、意根は必ず情報を伝達し、意識は理由もなく不快感を覚え、乙を好ましく思わなくなる。しかし具体的な理由は意識には分からず、意根は理解していても表現できない。もし意識に智慧があれば、乙が自分の悪口を言い続けていることを知り、何らかの報復行動を計画するかもしれない。意根が報復を認めれば、甲乙二人の間に劇的な展開が生じるだろう。故に陰で人を論じ評価すべきでなく、ましてや陰で悪事を働いてはならない。機密は必ず漏れ、隠し通せる壁などない。人と悪縁を結べば遅かれ早かれ報いを受け、因果を超えられる者はいない。何事も結果を残さないことはないのである。
意根はまた意識に貪・瞋・癡など一切の煩悩を伝達し得る。例えば財物への貪欲が生じれば、財物を見て我が物にしようとする。意識は遠慮がちでためらうが、意根が背後で唆し主導すれば、意識は慎重にこっそりと財物を奪う方法を模索する。もし意根が正しければ、意識に正直な心念を伝えられる。意根が果断であれば意識を強靭にし、意根に智慧があれば意識の行いを理法に適ったものとし、染汚の境界に遭遇しても汚されずにいられるのである。
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