衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月06日    火曜日     第1 回の開示 合計2679回の開示

雑阿含経(二八三)の一

(一)原文:如是我聞。一時、仏は舎衛国祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、結に係わる法に対して味着が生じ、顧念する心の縛りがあれば、すなわち愛が生ず。愛を縁として取あり、取を縁として有あり、有を縁として生あり、生を縁として老病死憂悲悩苦あり。かくの如くかくの如く、純大苦聚は集まる。

釈:世尊が舎衛国祇樹給孤独園での法会において縁起の法を説かれた時、諸比丘たちにこう告げられた。もし汝らが自らの心の煩悩の結びつけられた法(六塵の境界など)に対し、係わる法に随って愛着心を生じ、常にその煩悩に係わる法を思い続けるならば、心はこの法に堅く縛られて解脱を得られない。

心に味着が生じ、絶えず思い続ければ、貪愛が生じる。煩悩の結びつけられた法への貪愛があれば、執着心が生じて捨てられなくなる。執着して捨て去らぬため、心は必然的にこの法を離れず、後世の業種が残される。かくして後世の五陰世間が必ず生じる。後世の業種が熟せば、五陰身は再び生じ、この法と乖離しない。生あるが故に老病死憂悲苦悩が五陰身に伴い、かくして無量の生死の大苦が再び集結する。

「結」とは、結縛・煩悩・係縛・心を閉じ込める枷である。結に九種あり:愛結・瞋結・痴結・嫉結・我見結・取結・疑結・悋結・慢結。これらの結は自らをどこに係縛するか?三界六道の輪廻に係縛する。では「結に係わる法」とは何か?六塵の境界・人事物理、三界の世間法である。「随って味着が生ず」とは、世俗の法に滋味・趣味があると認め、自らの貪心などの煩悩を満たすとし、心がこれを慕い、顧念を生ずることをいう。顧念とは、心が絶えず思い、気にかけ、望み、得んとして、ひたすら執取し続けること。

「心の縛り」とは、心がこれらの法に絡み縛られ、係縛されること。係縛された後、心は貪愛などの煩悩を生じる。貪愛が生じた後の現れは何か?執取・把持・保愛・貪執不捨である。誰が誰を執取し係縛するか?表面上は自らの心が六塵法を執取するが、実は心が六塵法に把捉されている。故に心縛りの最も深刻な結果は執取であり、業種を残し、後世の三界有法を生じさせる。

もし比丘またはいかなる修行者でも、自らの心を係縛する生死の結びに対し、その結びに随って貪愛心を生じ、これらの結に係わる法を滋味あるもの・享受すべきもの・快適なものと認め、常にこれらの法を思い続けるならば、心はこれらの結縛に係わられ、かくして貪愛が生起する。貪愛が生起すれば、内心に執着心が生じ、これらの結縛を執取する。衆生の心に執着があれば、後世出生の条件、すなわち因縁あるいは種子が形成される。後世出生の種子が形成されれば、因縁成熟あるいは種子成熟の時、生命体は再び生じる。生命体が生じれば、老病死憂悲苦悩が生命体に伴って現れる。後世生命体出生の因縁条件とは何か?三界器世間:欲界・色界・無色界である。

貪愛が生じれば執取占有が起こり、執取すれば三界有が生じ、後世生存の条件が整う。三界法が生じれば、その中に生命が生まれる。生命が生じれば老病死憂悲苦悩が相伴い、純大苦聚が生起する。もし貪愛などの煩悩を滅すれば、心の結びは解け、係縛なくなり、三界五欲六塵に束縛されず、かくして心は解脱する。

——生如法師の開示
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