衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年09月29日    火曜日     第2開示 合計2658開示

末法学人と古時修行人の区別

末法に近づくほど、衆生の福は薄くなり、善根は浅くなります。そのため仏法の修証においては、次第に理を説く者は多く、理を通じる者は少なく、道を明らかにする者は多く、道を行じる者は少なくなり、修行によって真に証果を得る者は、まさに希少な存在となっています。列子は言いました。「大道は岐多きを以て羊を亡ぼし、学者は方多きを以て生を喪う。」学ぶ法があまりに雑多であると、深く入ることができないために、頭緒や章法が見えなくなります。修行では往々にして、知ることが多くなるほど証することが少なくなります。禅定がないと実証ができないからです。広く聞いて多く学ぶことは禅定を必要とせずに多くの仏法を知解することができますが、実証は論外です。現代人は禅定を修めることができません。もし多くの衆生に正しい道理をあまり説かないと、人々はあちこちで広聞多学をして、如理でない理論を学び、実証を導く道理がことごとく間違っていれば、なおさら実証は不可能になります。

私たちが最も参学すべきは、古代の修行者たちです。彼らがどのように道を修めたのか、どのように工夫したのかを探究すべきです。彼らは大量の理論を学び、それから雄弁にあちこちで論議したり、雄弁に到る処で説教して人師となったりしていたのでしょうか。自ら未だ修証がないのに、どうして他人に修証を教えられるでしょうか。なぜあえて人師となろうとするのでしょうか。その中に自我を顕彰しようとする心はなかっただろうか。古の聖賢たちは、たとえ道を得た後であっても、皆謙虚で控えめに自修を続け、安易に山頭を占めたり、師から受け継いだ伝法の棒を受け取ったりすることはありませんでした。無我であるがゆえに、また自知の明があるがゆえに、多くの賢聖が弘法しているのだから、衆生は十分に救い得るのであり、自分の道がまだ堅固でないのに、あえて強引に頭角を現す必要などどこにあるでしょうか。現代人はまさにその逆で、道であろうがなかろうが構わず、頭角を現すことができさえすればよいと考えています。

——生如法師の開示
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凡夫は如来蔵(tathāgatagarbha)を転依(āśraya-parāvṛtti)できるか?

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