衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月29日    火曜日     第1 回の開示 合計2657回の開示

意根の熏習による変化

問:弟子が色身の苦・空・無常・無我を思惟し、己を思ひ人を思うに、生老病死、飲食排泄、身のままならぬことを観じ、平常歩行時の思惟は浅くとも、静かに思惟する時、身心に喜悅の覚受が現れ、あたかも新たな天地に入り、身心が別の境界に入ったかの如く、この感覚を甚だ好む。この覚受は意根が少々熏習されたものでしょうか。

答:心底より湧く喜悅は全て意根より来たり、色身と意識心に顕れる。意根が熏習を受けてこそ身心の様々な変化、苦楽の覚受、及び不苦不楽の覚受が生じる。意根に新たな認識が生じ、思想観念が転換すれば、自然と身心も転換を促される。常に五陰無我その他の仏理を思惟観察すれば、意根と身心の変化は次第に大きく多くなり、遂には量変から質変へ、脱胎換骨し、鯉が龍門を躍る如く、凡夫から聖者へ転じる。

問:ある時車を運転しながら思惟していたところ、初めは思惟が乱れていたが、突然雑念が一切消え、周囲の環境が極めて陌生に感じられ、道が判らなくなり、見るもの全てが新鮮に感じ、空気さえ特別清浄に感じ、その後迷子になった。その道路は実際には非常に慣れた道であった。何故このような感覚が生じたのでしょうか。

答:心が仏法思惟に専注した後は、注意力が周囲の塵境に留まらなくなるためである。意識が専心して思惟するにつれ、意根が仏法に対する観感を深め、内心に喜悅が生じれば、見るもの全てが愉しく感じられる。心が物を転じ、境が心に随って転ずる。これは修行過程において暫時現れる果報であり、未だ最終結果ではない。最終結果は極めて殊勝なるものである。これらの修道の過程とその積聚が無くして、何人も自らに何某かの果報ありなどと語るべからず。樹脂製の果実など誇るに足らぬ。

——生如法師の開示
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