(二)原文:またこのように思う。執取はさらに何を縁とするのか。どの法があるがゆえに執取があるのか。どの法を縁として執取が生じるのか。すなわち正思惟を起こし、真実の無間等の智慧が生じる。執取の法に味着し、顧み念う心に縛られ、愛欲が増長することを知る。かの愛があるがゆえに執取があり、愛を縁として執取が生じる。執取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老死憂悲悩苦が生ず。かくのごとく純粋なる大苦が集起する。
釈:仏は説かれた。私は再び疑問を生じた。五蘊の身への執取は何によって存在するのか。どの法の存在によって執取が生じるのか。どの法を縁として執取が生起するのか。このような思いを起こした後、ただちに正思惟に入り、真実の無間断なる智慧が生じた。執着心が存在する所以は、五蘊の世間法に対する貪着と執着があり、心が絶えず法を顧み続けることで縛られ、世間法への貪愛と欲望が増大するためであると証得した。貪愛があるがゆえに執取があり、貪愛を縁として執取が生じる。執取を縁として三界世間の有が生じ、三界世間があるがゆえに生命体がそこに出生する。生命体が出生すれば、老病死憂悲悩苦が生じ、このように無量の大苦が集起する。
この文が示す意味は、貪愛欲望が生老病死苦の直接的な根源であるため、貪愛こそが苦であり楽ではなく、苦因であって楽因ではないということである。衆生は顛倒し、この理を知らず、至る所で貪愛を起こし、執着を捨てられない。深い禅定に入り静かに観察したことがなく、世間に何を貪り愛する価値があるのか、この貪愛の結果は何か、得られる楽はあるのか、貪愛の本質は何か、一体何が執取し続ける価値があるのかを究明しない。
もし因縁条件が具わり、独り静寂の処において、一切の法と一切の心行を細やかに静観すれば、真実のままに一切の法に貪愛する価値のないこと、一切の欲望が実体なく苦悩であること、世間に何ら実体のないことを了知する。このように心が空じれば、苦は消滅し、楽を得て解脱する。肝要は勇猛に根源を追究し、一連の縁起の環を辿り、心と法の本質を徹底的に究明することである。ついには心も法も何ものでもなく、何も存在しないことを悟れば、世間の事柄から解脱し自在となる。
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