如是我聞。一時、仏は舎衛国祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げられた。我は宿命を憶念するに、未だ正覚を成ぜざりし時、独り静寂なる処にて専ら禅思に精進し、かくの如き念を生じき。世間は入り難し。所謂、生あるいは老、病あるいは死、遷あるいは受生なり。然るに諸衆生は、生老死の上及びその所依について如実に知らず。
釈:世尊が舎衛国祇樹給孤独園におられた時、諸比丘に告げられた。私は宿命通によって過去世を回想し、未だ仏陀の正覚を得ていなかった時、独り静寂で妨げのない場所において、一心に精進して禅観行を思惟し、このような観念を生じた。この世間は苦難に満ちている。これらの苦難は生によってもたらされ、老によってもたらされ、病によってもたらされ、死によってもたらされる。あるいは生命の遷移によってもたらされ、あるいは受生によってもたらされる。しかし衆生たちは生老病死の過患を如実に知らず、生老病死の依り所となる法をも如実に知らないのである。
原文:我は是の如き念を起こせり。何の法あるが故に生あり。何の法の縁によって生あり。即ち正思惟を起こし、無間等の知を生じき。有あるが故に生あり。縁あるが故に生あり。更に思惟す。何の法あるが故に有あり。何の法の縁によって有あり。即ち正思惟を起こし、如実無間等の知を生じき。取あるが故に有あり。取の縁によって有あり。
釈:仏は言われた。私は禅思の中でこのような疑問を生じた。いかなる法が存在する故に生命体が現れるのか。いかなる法の縁によって生命体が生じるのか。直ちに禅思において正思惟を起こし、間断なき智慧の認知を得て次の理を証した。三界器世間がある故に生命体は生じる。三界器世間の生存条件が具足する縁によって生命体は現れるのである。
この基盤の上に、更に思惟を進めた。いかなる法が具足する故に三界器世間の生存条件が具足するのか。いかなる法の縁によって三界器世間の有が生じるのか。そこで正思惟に入り、如実にして間断なき正等の智慧認知を生じた。五蘊世間法への執取がある故に三界器世間の有が生じる。心が五蘊世間法を執取する縁によって三界器世間の有が現れるのである。
この段において、仏陀は全て理に適った実修の経緯を説き、真実の参究と実証の過程を語っている。まず参究する法に対して疑問を起こす。疑情が深く生起した時、単なる意識の思惟ではこの疑情を解決できない。意根が疑問を抱いたため、この疑いは自ら解決せねばならず、意識では代行できない。そこで仏陀は定中で正思惟、即ち深細な意根の参究を起こし、その結果として間断なき正等の知を生じたのである。間断なき知こそが意根の知であり、意識の知は断絶する。特に命終後は顕著である。意根自らが参究した故、最終的に意根自らが間断なく真理を証知し、法の真実性を悟ったのである。
もし仏陀に禅定がなければ、第一に意根は疑問を起こせず、単に意識の浅い疑問に留まる。第二に意根自ら深細な参究を行えず、結果として間断等の知を生じず、意識の推理分析に依存するのみで法の真実性を実証できない。故に独覚仏(辟支仏)は深山中で独修し、禅定は極めて深く、思惟力は他者を超えて深細であり、かつ正思惟を持つ。外道たちは禅定が深くとも正思惟を持たない。邪見がある故に思惟が正しくないのである。深い禅定により意念が集中し、思惟力が強大であれば、大いなる智慧である如実智を開くことができる。
当時の仏陀はまだ独覚仏であり、世に仏の出世なく、法もなく、伝法の僧もいない中、独り山林で出家し、禅定と智慧を深め、独り五蘊世間の生老病死という苦の法縁を思惟した。更に世間のこのような苦を思惟し、衆生が何故自ら覚らないのかを考えた。仏陀は衆生の苦を解脱させるため、禅定中に生命が如何にして現れるかを探究したのである。
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