問:我見を断つとは、意識による反復的・深遠なる如理作意の観行であり、意識が末那識に対し五蘊の虚妄性を論証し、最終的に末那識が首肯する過程である。これは立証・説得・再立証・再説得の循環プロセスである。意識が観行の証拠を漸次的に末那識に提示し、最終的に末那識が承認する。この承認も相応と言えるか?我見を断つことも末那識との相応か?首肯の意味と相応の区別は何か?
答:意識による反復的・精細なる思惟観行を通じ、全ての証拠を漸次的に末那識に提示する。末那識が証拠の確実性を思量した時、確認と承認が生じる。この承認は末那識が覚醒し、五蘊無我の理に相応したことを示す。証拠が充分であればあるほど、現量の境が多く提示され、末那識の承認と相応が深まる。末那識は現量境を承認し、非量の想像とは相応せず、証拠のみを求める。
末那識が無我の理に相応する時、「ああ、本来かくの如し」と了知する。末那識は自らの五蘊一切法が虚妄であることを知らなかったが、今や証拠が眼前に示され、この理を認めざるを得ない。従来は意識が多少なりとも無我の理を知っていたが、末那識は慧が浅く、了別能力が不足し、深細なる思惟ができなかった。
意識の分析的思惟による理解は解悟に属す。これは定力が不十分で末那識に深達せず、末那識が理を明らかにしないためである。定力が優れれば意識の思惟は深まり、表面的理解を減じ、意識の動きが緩慢になることで末那識の思量力を発動させる。末那識自らが明白になれば、意識も必然的に明白となる。定が浅く意識の分析が多い場合、意識は容易に理解しても末那識に提示する証拠が不足し、末那識自身の思量性も不十分で理を明らかにしない。意識の分析的用心を減じ、末那識に多く用心させ、多く思量させれば、五蘊無我を証悟できる。
末那識の確認する力は非常に大きく、自心を改め、身口意行を改め、業行を改め、業種を改める。この修行は大いなる捷徑である。末那識に多く用心させ現量証得せしめんとすれば、深く禅定に入り意識の動きを減ずることが必要で、これが参究の原理である。古来禅師は学人に心意識を離れて参禅せしめ、分析せず情思意解を禁じてきたが、その深奥の理を必ずしも理解せず、これが末那識の功用であり相応であることを知らなかった。末那識の運作は唯識種智の領域に属し、多くの禅師は唯識種智を生起していない。故に我見を断つ原理も参禅の原理と同じく、末那識を利用し、末那識に密かに五蘊無我性を思量せしめ、意識が定中で深細に思惟し緩慢深く動くことで末那識に深達し、無我性に相応するのである。
末那識の全ての機能・体性・作用を発掘すれば、修行は大いなる捷徑、最も大なる捷徑となり、跳躍的な修行が可能で、成仏は極めて迅速となる。
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