衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年11月24日    土曜日     第3開示 合計1034開示

無我を証得できない原因

この色身が私ではないと分かっていても、どうしても我見を断てないのはなぜか。これは智慧の問題である。一つには、意識心に無我の智慧がなく、観行 (vipaśyanā-caryā) と思惟の仕方を知らず、証拠や資料を集めることを知らず、意根を熏染するやり方を知らないこと。また禅定力が足りず、専心して思惟できず、意根に意識の観念を受け入れさせることができず、意根が意識の集めた証拠や資料を専心して思量 (manasikāra/manana) できないため、我見を断除できないのである。

意根の無始劫以来の観念は、最もひっくり返しにくいものである。時には意識がはっきりと色身は生々滅滅であって真実ではなく、私であるはずがないと知っていても、意根はどうしてもこの偽りを認めることができない。引っかかっているのはまさにここである。多くの場合、意識が提供する証拠も確固たるものではない。たとえば「一足す一は二に等しい」という命題について、この命題が正しいことは知っているが、なぜ一足す一が二に等しいのが正しいのかは分からない。意識すら知らないのであれば、意根はなおさら知るはずがない。

色身に無我と観行するには、さまざまな異なる側面から観行することができる。たとえば片手を切り落とされたとき、その手が私であるかと観行する。そうではない。手はなくなったが、私はまだある。もし手が私であれば、私はなくなってしまっているはずであり、この手が私ではないことが分かる。目をえぐり取られた後も、私はやはり存在しているではないか。ならば目は私ではない。耳を切り落とされても、私はなお存在し続けており、死んではいない。ならば耳は私ではない。頭を切り落とされれば、私もそれとともに死ぬが、もし私が確かになくなってしまったのであれば、未来世の私が再びあることもないはずであり、この色身もまた私ではないことが分かる。昨日の私、これは私であろうか。もし私であれば、昨日の私、どこへ行ってしまったのか。これらの問題を一つの思いに凝らし、心の中に懸けておけば、いつの日か、意根はついに分かるであろう。ああ、そうだったのか、色身も五蘊もみな私ではないのだ、と。こうして我見 (ātma-dṛṣṭi) は断たれるのである。

——生如法師の開示
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