衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月15日    火曜日     第2 回の開示 合計2621回の開示

『楞厳経』抜粋と解釈

原文:狂心頓歇、歇すなわち菩提なり。富楼那よ、妄性かくの如し、何を因としてか在る。汝ただ世間・業果・衆生の三種相続に随わず分別せざれば、三縁断ぜらるるが故に、三因生ぜず、すなわち汝が心中の演若達多の狂性自ら歇す。歇すなわち菩提なり。勝れたる浄明の心、本より法界に周遍す、人より得るに非ず、何ぞ労苦を藉りて肯綮の修証を要さん。

釈:歇すとは心の狂性を歇ますことで、六・七識を全て滅却するのではない。演若達多が鏡の中の頭を見て、自らの頭を失ったと思い、方々を奔走して頭を探したように、五蘊を我とし、一切の境界を我とし、七識を我とするが故に、自我を貪り、一切法を貪る。これが心の狂いである。

心が狂っているが故に、自らが本有する如来蔵を認めず、如来蔵の功能作用を意根自身の功能作用と錯覚する。このような狂心を歇ますまで修行すれば、本心如来蔵を証得できる。

衆生は常に外に向かって真の自己を探し求め、如来蔵が自らの五蘊の中にあり、一切法がそれであることを知らない。外に向かって探求することを止め、自らの中に向き直れば、容易に見出せる。それは別の処には存在しない。ついに結論として言える:勝れて浄く明るい如来蔵は、本来より十八法界に遍満して存在し、他者から得るものではなく、多くの心血を費やし代償を払って修証するものでもない。元より備わる宝庫中の家珍であるが、ただ業障によって発見されていないだけである。

——生如法師の開示
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