身体に障害が出て、禅定に影響するようになったときにはじめて、わざわざ身を修めるのです。健康で障害がなく、わざわざ時間と精力をかけて身を修める必要はありません。禅定が影響や妨げを受けないなら、身体のことは構わず放っておきます。身体を忘れてこそ禅定が生まれるのです。心の中にいつも身体の観念があると、一つには禅定を妨げ、もう一つには身見が断ちにくくなります。身体を空して、身体を忘れ、思い掛けず世話をしないようにすれば、禅定は生まれやすくなり、身見も断除しやすくなります。
現代の人と昔の人の修行の仕方はまさに正反対です。昔の人は身体を気にかけず、身体のことを構わず、身体に時間と精力を費やしませんでした。その結果、禅定は深く、証道も速かったのです。現代人はほとんど皆、身体にのみ従い、宝のように大切にして、「身体を大切にすることこそ修道のためだ」と言い訳をしますが、その結果、道は修められず、身体も必ずしもよく世話できているとは限りません。業障はそこに横たわっているのですから、どんなに保养し養生しても、身体にはやはり山ほどの問題があります。たとえ身体を保养できたとしても、心の中の身見はかなり増えてしまい、身見が断てないために、後世にはなお苦しみが尽きません。考えてみて、それだけの価値があるでしょうか。数十年の身体のために道業を誤り、真珠を欲しがらずに砂粒を拾うとは、なんと愚痴なことでしょうか。
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