衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月07日    月曜日     第3 回の開示 合計2602回の開示

達磨大師が説く入道の三つの条件

達磨大師が禅の修行方法を教えています。「外に諸縁を息(や)み、内に心喘(ぜん)無く、心を墙壁の如くにすれば、道に入るべし」と。前三句は条件と方法、後者は目標と結果であり、前三つの充分且つ必要な条件がなければ、後の結果は得られません。修行において達磨大師の説く入道の条件と合致せず、三つの条件から大きく外れている場合、必ず意識的な情思や意解が混入しており、悟りは真実ならず、見道は偏り、霧の中に花を見るように朦朧として真智が現れず、道業は停滞します。「外に諸縁を息む」とは、修行に励む際に六塵境界の縁を遮断し、心が六塵の相に執着せず、六塵境界に転じられず、山を見て山にあらず、水を見て水にあらず、山水の相を分別せず、心を山水や世俗の有為法に住まわせないことです。「内に心喘無し」とは、内面に種々の貪求や煩悩、思想や念頭、情緒を抱かないことです。

「心を墙壁の如くにする」とは、禅参究の過程で心を平穏で厳かで、密に風を通さぬ墙壁のように鍛え、外塵が入らず八風に侵されず、内面の雑念が起こらず煩悩無く、定力が山の如くで一切の境界に動じない状態を指します。

参究の過程には言語・文字・音声が存在せず、禅の後続段階である「伺」に相当します。猫が鼠を伺うように静かに機緣を待ち、時機を窺って動き、参究の目標が現れるのを待ち、一気に捉えれば戦功を収められます。達磨大師の説くこの修行境界は、純粋に一念も生じない禅定の境涯ではなく、意識には確かに念頭が無いものの、意根が深く思量し、疑情が最も濃厚で、念々に疑い、念々に弛緩せず、念々が道そのものであり、世俗の念無く、参究の目標を執拗に追及し、無始劫以来の生死の本源を究明しようとする境地です。

功夫がこの域に達して初めて証道・入道が可能となり、意根の親証と呼ぶに相応しくなります。これ以降、後得智・差別智が次第に生起し、第八識が五蘊の身中で運行する様を現前観察でき、第八識の無為性と有為性を直視できるようになります。第七識は第八識の無為的心性も有為的心性も学べます。意識の解に依存する場合、第八識の無為性を想像するのみで有為性を観察できず、第八識が如何に無為であるかを現前観察することもできず、観察智は現れません。

深甚な禅定によって入道する者は全て意根自らが参究し証得したものであり、これを親証と呼びます。そうでなければ全て意識の証得であり、「親証」と称するのは蛇足です。入道可能な禅定には未到地定と初禅定があり、特に未到地定が具足している必要があります。未到地定が不具足であれば悟道は浅く、初禅定があれば更に良く、悟りは深く透徹したものとなります。

——生如法師の開示
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