衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2020年08月31日    月曜日     第1開示 合計2580開示

外相分の味塵は存在するか

問:内相分は外相分から変現して生じたものですが、では外相分は果たして有るのでしょうか、無いのでしょうか。例えば一皿の料理がとても塩辛い場合、各人の内相分の中で味はそれぞれ異なりますが、果たしてこの料理には味があるのでしょうか、無いのでしょうか。

答:味塵の外相分は同じですが、各人は業力が異なるために、感じる味も異なります。業力が異なると、舌根から伝わってくる味塵の四大微粒子に変異が生じ、内相分にも変化が生じるため、識心が分別した後の感覚が異なるのです。例えば眼病のある人は、燈火の中に円影を見ることができますが、他の人には見えません。これは眼病という業障によるものです。衆生の福報と業障はそれぞれ異なるので、感じる味塵も異なります。例えば仏は無上の福徳をお持ちなので、いかなる食品も仏の口の中では最上の美味となりますが、凡夫の衆生の口の中では、そうではありません。

味塵は色法であり、四大の種子から構成され、外相分と内相分の二種に分けられます。したがって、外相分の塩味・淡味・甘味・辛味などの味塵の存在がありますが、舌識と意識は接触できず、了別することもできません。外相分の味塵に接触できるのは如来蔵だけですが、神様には口がないので、私たちに告げることもできないのです。

私たちが味塵を味わうときには、自分の仏性が働いています。したがって、食物を味わうときに、仏性の妙用を見ることができ、そのときには味塵を真実とは見なさなくなり、如幻観を証得することになります。福を修めず、定も修めず、もっぱら慧力に用心する人は、仏法を実証しにくく、しばしば大きな損をしながら、自分ではそれに気づきません。福徳と定力を修めない人が、もっぱら慧を修めようとすれば、より多くの代償を払い、より多くの時間と精力を費やすことになります。むしろ福徳を厚く修め、禅定をしっかりと修めてから、少し仏法を思惟するだけで、証得できるのです。損をしたくないと考える人は、かえって最後に損をするのが、これこそ智慧のない抉択なのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

現量と非量の概念

次へ 次へ

仮相の上に修行して一切の功徳を円満する

ページトップへ戻る