六塵は縁起法であり、多くの縁に依拠して生じ、存在し、発展変異するものである。それゆえ六塵は信頼できず、依拠すべきものではない。私たちは六塵への依拠から次第に脱し、六塵への貪愛と執著を減らし、修行がある段階に達したとき、完全に六塵に依拠しなくなれば、心は空となり、それが大解脱である。
私たちはどのような法に依拠すれば六塵に依拠することができるのであろうか。六塵を執取するには六識が必要であり、六識が六塵に対して分別を生じた後、六塵に依拠するようになる。どのような法が六塵を執取するのに六識を必要とするのであろうか。意根が六塵を執取し、その後六識を生じさせ、六識を用いて六塵を取り、意根がさらに六塵を執し、さらに六識の機能作用を執する。このようにして生死は循環し往復して絶えることがない。執する心は意根であり、六識という道具を用いて取るのであるが、実際に取っているのはやはり意根である。六識もまた縁起法であり、多くの縁に依拠して生じ、存在し、発展変異するものであり、信頼できない法、依拠すべきでない法である。それゆえ私たちは六識から次第に遠ざかり、六識への依拠を減らすべきである。修行がある段階に達し、完全に六識に依拠しなくなったとき、心は空となり、私たちは大解脱を得るのである。
このすべての真理は誰のために語られているのか。私たち自身のために語られているのである。私たちとは誰を指すのか。自分とは誰を指すのか。いずれも意根を指している。六識は伝達兵であり、これらの情報を意根に伝えて了知させる役割を担い、どこへ行くか、どの道を選ぶかは意根が主宰して決断を下すのである。もしこれらの情報が六識のところにとどまり、主人である意根のところまで伝わらなければ、これらの情報には何の用もなく、主人の心意と決断に影響を与え、変えることができない。するとすべては依然として元のままであり、生死は循環してやむことがない。
どのようにしてこれらの真理と情報を意根のところまで伝達させるのであろうか。定を修じ、禅定の中で思惟観行 (vipaśyanā-caryā) を行うのである。禅定が深いほど伝達の効果は良くなり、意根はこれらの情報をよりよく吸収し消化し、よりよく心意を変えることができる。そうすれば、すべての無明と執取はすっかり消滅し尽くし、一切の法から解脱し、生死の苦はなくなるのである。
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