衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年08月16日    日曜日     第3 回の開示 合計2546回の開示

六入を会得しないからといって六入を分別しないわけではありません

仏は『維摩経』において第八識菩提心について説かれ、諸入は会せず、会せざる者が菩提であるとされた。六入を会せないとは、六入を分別しないという意味であろうか。五祖の衣鉢は誰が得たか?仏法を会得せざる者が得た。この「会せない」とは何を意味するのか?仏法の具体的な内実を知らず理解しないという意味であり、これは第八識菩提心を指す。

六入には眼入・耳入・鼻入・舌入・身入・意入が含まれ、外六入として色・声・香・味・触・法、内六入として眼勝義根・耳勝義根・鼻勝義根・舌勝義根・身勝義根・意根がある。外六入と内六入に依って生じる六識は、六根を知り理解し、六塵をも知り理解する。しかし第八識菩提心は六根を知らず、六根が何であるかも理解せず、六塵を知らず、六塵が何であるかも理解しない。

問:六根六塵を知らず理解しないとは、六根六塵を了別せず分別しないということか?

第八識には無明がなく、一切の法を縁じ、作意・触・受・想・思の一切の法を行い、そのままに一切の法を知り、一切の法を理解する。もし第八識が一切の法を知らず理解せず、六根六塵を知らず理解しないならば、どうして時処を超え刹那ごとに六根六塵を保持し、六根六塵を変化させることができようか。第八識もまた六根六塵に対して受・想・思を行い、択択を有し後続の造作を行う。それゆえ必然的に六根六塵を知り理解しているからこそ、いかに造作すべきかを必然的に知っているのである。ただ第八識は六根六塵の世俗的法相を知らず、世俗的意味合いを理解しない。これらは第七識が知るべき内実である。第八識は何を知るのか?甚深なる唯識種智がなければ第八識の知を観察できず、それならば第八識に問わねばならない。第八識には無明がなく、一切の法を分別すること明明白白にして、毫も錯乱せず、第七識のように多くの場合分別が明らかでなく、択択が錯乱し、造作が錯乱し、果報が錯乱するようなことはない。

——生如法師の開示
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