衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年08月16日    日曜日     第2開示 合計2545開示

天眼と定中所見はいずれも錯覚である

天眼に見えるものも、自分の如来蔵(tathāgatagarbha)が変現したものであり、法を見て真実だと感じるなら、それも錯覚である。定果色は、脳において生じ、勝義根(indriya)において生じるものである。したがって、定の中で見る定果色もやはり錯覚である。肉体があり、脳がある限り、一切の法はそこに生じる。法塵も、法処所摂色も、すべて脳において変現するのである。

仏光とは何であろうか。識心が知らず分別しないときでも、なお色塵はあり、これらの色塵は依然として虚妄で、幻化した、四大から成るものであり、刹那に生滅する空のものである。仏光もまた物質から成り、四大から成る色法であり、虚妄で、幻化した、生滅する、真実でないものである。それならば、座禅をして仏光を見て、真実だと感じるのは錯覚である。したがって、われわれは仏光に執着する必要はまったくない。魔王もこれらの光を現すことができ、魔王も仏の姿を変現させることができるのである。

人体の解剖図を観察すれば、人体の動作は筋肉の動作であり、機械化されたものであって、真に動作している「我」があるのではないことがわかる。人体とは意根の道具であり、高精度に機械化された全自動のものであって、真実のものではなく、如来蔵が編成したものである。このように分解し組み合わせることができるものは、一体何であろうか。それはあなたか。それを我とみなすことができるか。それに執着してこれほど多くの代償を払うのは、値するだろうか。せいぜい数十年使うだけのことで、だめならばまた良いものと取り替えればよいのである。

この神経元システムを見よ。それはただ正負極の電線の束にすぎず、ただ絡まった麻縄の山にすぎない。そこから行蘊と識蘊が引き出され、想蘊と受蘊が作り出される。それを見破れば、実は何もないのである。これらの累赘を取り去れば、軽やかに自在に解脱し、煩悩も憂いもない。

このすべては、使うだけでよく、執着する必要はない。全体の色身を含め、六識の機能作用を含め、すべて固定されたプログラムがあって、如来蔵が設計・編成し、意根に使わせているのである。もし誰かに平手打ちを食らわされ、拳を食らわされたとしても、まあ済ませてしまえ、計らうな。それはあなたには届かないのだ。もし誰かがあなたに無理難題を吹っかけても、まあ済ませてしまえ。あなたを侵害することも、傷つけることもできないのだ。世間には好きなようにさせればよい。善くも悪くもどうでもよく、真実のものは何もないのだから、マジになる必要などどこにあるのか。あなたが私と怨を結び、私が彼と仇を結び、あなたが私を憎み、私が彼を嫌う――煩悩するにもまったく道理がなく、意味がない。微生物同士の争奪から、国と国の戦争、世界大戦に至るまで、争いが収まらないのは、まったく道理がなく、誰をも倒すことも、誰をも打ち砕くこともできない。生じては滅し、滅しては生じ、生もなく死もない。世界で幾百万が死んでも、ただ大量の絡まった麻縄が消えたにすぎないのである。

釈迦仏の親族は琉璃王によって数百人殺された。阿難は心を失うほど苦しんだが、佛陀はいつもと変わらず、心は水のように平らかで、悩まず恨まなかった。なぜ佛陀はこのように達観しておられるのか。すべてのものに真人も真事もなく、幻化した空のものだからである。それゆえ佛陀は解脱しており、阿難は解脱していないので苦悩がやまないのである。

——生如法師の開示
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意根の我見我執を断除するには、意根の働きを現観する必要はない

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六入を会せざるは六入を分別せざるに等しくない

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