衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年08月14日    金曜日     第3 回の開示 合計2541回の開示

任運と尋伺の関係

任運とは、識心が自然や因縁に随順して自動的かつ自覚的に運行することを指し、人為的な干渉によって阻止され停滞することのない状態をいう。八識のうち第八識と意根のみが任運に転ずる識心であり、六識はこれに該当しない。六識は意根の制限を受けるため、作動できない状況が極めて多く、故に六識は任運に転ずる識ではない。

尋伺とは、意識が単独で、あるいは五識を伴って行う探求・推敲・思惟・参究・研究などの行為を指し、意根の抱く疑問や問題を解決するためのものである。よって意識または六識の尋伺は直接意根の指図を受ける。意根が東を尋伺せよと命ずれば東を尋伺し、西を尋伺せよと命ずれば西を尋伺する。事前に意識は提案を提示し、意根の参考と選択に供することができる。意根自体は単独で五陰身の活動を行うことはできないが、意根には「走使」すなわち代行者が存在し、多くの事柄を代行させ得る。意根はこれを用いねばならない。指導者が多忙で自ら具体的な事柄を処理できない場合、部下に任務を割り当てるのは当然の理である。六識が意根の指令を所定の通り遂行するのは責務であり、まさにその職分に他ならない。

第八識には尋伺の行為も心行も存在しない。第八識は無為で主体性を持たない心であり、あらゆる事柄と無関係であるため、何かを尋伺する必要がないからである。意根は一切法の運行において、無明と広範な攀縁のため、一切に対する認識が極めて粗雑であり、理解できない事柄が常に存在する。六識に依拠したとしてもなお理解できない法は多く、これを解明するために尋伺心を起こして探究し、六識に探究任務を遂行させる必要が生じる。故に任運に転ずる意根こそが、六識の尋伺行為の発動者・監督者・指揮者であり、その結果は意根が受用するのである。

——生如法師の開示
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