意根における我執は生まれつきのもので、倶生我執と呼ばれます。主に五蘊十八界を我及び我の所有物と執着し、実在の作用があると見做します。我を執り人を執り衆生を執り寿命を執り、六塵の境界を執り、六根の作用を執り、六識の知見を執り、受想行識を執り、色身を執ります。その他のより微細な法への執着は法執と名付けられ、法を実在と執り、我の所有物とし、実際の作用があると見做します。もちろん多くの法を知らず理解していない時は、執着する手段がありません。修行の程度が深まるにつれ、理解する法が増えれば増えるほど、心の法執は絶えず現れ強化され、継続的な観行によって伏せ除かれ断ち切られる必要があります。
意識にも執着はありますが、意根ほど深刻ではなく、境界に接した際に現れる境界への執着です。六塵の境界に接触すればするほど執着は増大し、分別我執と呼ばれます。意識の分別我執は断続的で、時に現れ時に消え、意識が滅すれば執着も滅します。意識が道理を明らかにする時、執着は降伏または消滅します。意識の境界への執取は意根の執着より軽微で、それほど頑固ではなく、捨てようとすれば直ちに捨てられ、一晩眠れば忘れるかもしれません。意根の執着は一生眠り続けても忘れられず、消除できず、極めて頑固です。場合によっては、逆らえば逆らうほど強固になります。
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