一切の法は事と理の二つに分けられる。事とは相のことであり、理とは如来蔵の理体である。事を論じる際には、相の上から相の実有性を破らねばならず、この時は理如来蔵の角度から説いてはならない。そうすると、ある者は相こそ真実であると錯覚し、執着を生じて心が束縛され、解脱できなくなる。
小乗法は全て相の上から有を破するが、大乗法は理と事の両面から修行する。理の上から相を破し、理を認めれば事足りるが、相を廃することもなく、理に執わず事を廃せず、理と事を円融一体とし、いずれにも偏らせない。さもなければ仏法は成就しない。
究竟まで理と事が円融する境地に至れば即ち仏であり、未だ究竟でない理と事の円融は地上の菩薩及び等覚・妙覚である。明心後の菩薩はわずかに円融できるかもしれないが、観察力が備わらなければ全く円融できない。
証果も明心もしていない者に五陰十八界の法や世間の一切法が不生不滅であると説けば、彼らはこれを真実と受け止め、これらの執着に誤りはなく何ら悪くないと考えるだろう。そうなれば貪愛と執着を滅する方法を求めず、衆生の生死問題は解決されない。
一切法が即真如であることは地上の菩薩及び仏の現量観行の結果である。凡夫は五陰十八界の生滅相から一歩一歩修行を積むべきで、直接五陰十八界を不生不滅の真如として扱うことはできない。この理を現量観察できる者はいない。
四禅八定は事修であり、相を修めるものである。相には必ず生滅があり、不生滅の相は存在しない。第八識の空相を除いては、空相は無相ゆえに不生不滅である。四禅八定における六識は相の上から見れば生滅変異し、第七識も同様に生滅変異する。生滅変異の法を論じ、相を修める時には生滅変異の相がなければならない。この時に七識と四禅八定が全て不生不滅だと言えば、不自然に映る。もし全てが不生不滅で固定されていたら、我々に修めるべきものはなく、既に完璧であることになる。
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