観行の仏法は一般的に現量の境界から観じ始め、観察が比較的容易な手がかりを得られます。観察しやすい現象の境界から着手することで、観行の成就が容易になり、証得も容易になります。しかし全てがそうとは限らず、観行は非量の想像思惟からも始められます。禅定力が増強し、慧力も強まると、次第に非量から現量へ移行し、一旦現量の境界が現前すれば、非量は完全に自らの現量境界へと転じます。三昧境界が現れると観行が成就し、自ら道を証得します。このような証得は禅定力と智慧力が共に深く、三昧境界は容易に退失せず、身心世界の変化が極めて大きく、大いに利益を得られます。
例えば白骨観では、最初は白骨を観察できず、白骨を想像するか、観察可能な皮膚や筋肉から段階的に観じ始め、徐々に白骨へと移行します。最初は意識による非量の白骨観であり、努力して白骨を想像します。定慧が増強すると白骨は自然に現前し、意識で特別に考えようとする必要はなく、むしろ意識では到底考え及ばず、すでに意根の心に深く入り、最終的に意根によって想起された白骨が自然に現前します。意識では到底及ばず、除去しようとしても除去できません。これはもはや意識の境界ではなく、意識では制御できないからです。
その他様々な三昧境界は全て功力が深まり、意根によって自然に現起するものであり、意識の境界ではなく、意識では制御できません。例えば念仏三昧が成就すると、歩く・座る・寝るすべての動作の中で仏号が絶え間なく響き渡り、念じずして念じる状態となります。これは意識による念仏ではなく、意根による念仏です。意識で仏号を消そうとしても不可能で、仏号を制御することも、色身の禅定状態を制御することもできません。この点から言えば、全ての証果や明心、様々な悟りの三昧境界には定と慧が備わり、いずれも意識の境界ではなく、全て意根によって発起され、意識はただ随順するのみで操作する力がありません。意識は不可解に感じ、不可思議を覚えるかもしれませんが、実は意根は事情を知っているため、表情は穏やかで心は開け、深甚な禅悦の中にあり、その心境は言葉では表現できません。また『観無量寿経』の十六観では、第二観から第十六観までは非量の部分であり、意識では到底観察できません。意識では極楽世界や極楽世界の大地・水・樹木などを見ることができず、阿弥陀仏や観世音菩薩・勢至菩薩を見ることもできないため、想像するしかありません。これらの想像には次第と方法があります。第一観は準備段階であり、一つには定力と集中力を養うため、二つには心を極楽浄土へと導き、極楽世界と相応じさせるためです。第一観の三昧境界が現れた後、第二観は完全に第一観の基礎の上で観行を進めます。非量ではあっても、水が極楽世界の瑠璃の大地へと変わるように、自然に流れに沿って進みます。
この三昧境界が現れると、定慧がさらに増進し、その後ろの非量境界も自然に水到渠成となり、自らの現量境界へと変わります。阿弥陀仏の像や観世音菩薩・勢至菩薩の像を全て観じ上げ、すべての像が極めて精緻で美しく無比の境地に至るまで続きます。
これらの三昧境界は実際には意識心が想像したものではなく、意識では絶対に想像できず、いかなる方法でも想像できません。ただ最初に意識による想像を借りただけです。深甚な禅定智慧が現れると、意識はほとんど用を成さなくなり、意根を薫染し終えると、ほとんど全て意根に依存します。意根が動けば三昧境界が現れ、如来蔵は絶対に意根に面子を与え、意根に協力します。総大将はやはり総大将であり、参謀や助手よりもはるかに強い存在です。
したがって多くの事柄は、意識では到底想像できず、全て困難に感じ、手がかりがないように感じられます。しかし心配無用です。意根の薫染に成功さえすれば、残りの事は全て意根に任せ、意識の及ばない一切の事業を完成させることが保証されます。仏陀となるというこの世で最も偉大な事業さえ、意根は最終的に自然に任運のまま達成できるのです。
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