衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年08月09日    日曜日     第1 回の開示 合計2521回の開示

有為こそが無為のためです

ある人が言う、「世の中の一切の法は幻化した仮の相であり、無生なるものであるなら、私たちは何かを努力して行う必要はなく、何をしても意味がない」と。このような考え方は正しいでしょうか?

もちろん正しくありません。仮の相を借りて修行しなければ成就を得ることはできず、成就する前には仮の相の上で非常に努力して修行する必要があります。仏道を学ぶ過程でのすべての善行は、悟りを証するため、無生を証得するため、無相と実相を証得するためのものであり、証得した後に初めて真の無生を知り、解脱して仏となることができるのです。有為は無為のためです。ですから、無為を成し遂げる力を持つ前に、意義ある有為は全て努力して行うべきであり、何をするのも自分自身のために行い、自らが利益を得て、無為の果実を収穫するのです。表面的には他人を利益しているように見え、他人が自分の助けを得て、自らが三宝を護持し、三宝と衆生を利益しているかのようですが、実際には自分自身が最大の利益を得ています。もし三宝が利益を得ず、衆生が利益を得なければ、自分が行ったすべては無益であり、無駄な努力に終わります。いわゆる利益とは、三宝と衆生を利益した上で初めて現れるものであり、他人が利益を得なければ、自分も福徳や功徳、智慧を得ることはできません。

例えば衆生に布施すれば千倍以上の報いを得ると言いますが、もし相手が受け入れなければ一つの報いもなく、相手が利益を得なければ何の報いもありません。虚空に一万元を布施するようなもので、虚空は受け取らず利益もなく、自分が一万元を失ったのと同じです。お金を失うことに何の報いがあるでしょうか?自分は一銭の報いも得られず、ましてや千倍万倍の報いなどありえません。大海に一万元を布施するようなもので、大海は受け取らず利益もなく、かえって一万元を破壊してしまいます。それでは自分は一万元を無駄にしたのと同じで、故意に印刷された紙幣を破壊すれば罪すらあります。大火に一万元を布施するようなもので、火に焼き尽くされ、布施は無益どころか罪を招きます。

ある人々は自分の布施を忘れず、常に人に恩を感じていますが、実際には相手が自分に恩を施しているのです。もし他人が自分の施しを受け入れてくれなければ、どうして千倍万倍の報いを得られるでしょうか?どうして少しずつ積み重ねてあれほど多くの悟りの福徳資糧を蓄えられるでしょうか?仏陀は衆生が多くの福徳を積むように、涅槃に入る際にあえて数人の阿羅漢弟子に形を留めて世に住まわせ、衆生が供養する機会を与え、大いなる福徳を培う機会を提供されました。それらの阿羅漢は実は人々の供養を受けたくありません。一つは面倒だから、二つ目は自分の福徳を消耗するからです。しかし仏陀の弟子として、一つは仏陀の配慮を尊重し、二つ目は衆生を利益するためです。だからこそ彼らは無余涅槃に入らずに世に住んでいるのです。

ある人々は法施を行い、縁ある人を正規の修学に導くために投稿をしますが、まるで師匠のために仕事をしているかのように感じ、他人が利益を得て自分は時間と労力を費やし、損をしたように感じます。自分が法施を行った結果がどれほど殊勝で、最終的にどれほど大きな利益を得るか、数え切れず計算できないことを理解していません。まさに自分が行ったこれらの功徳と福徳によって、今世と来世の修学過程で速やかに仏道を成就し、無量劫の生死輪廻の苦しみを免れることができるのです。この果報は虚空のような財宝でも換えることができず、得られる果報は言い尽くせません。そして自分が法施で利益を得た人々は、自分自身の福徳・功徳・智慧には遠く及びません。三宝と衆生が自分の布施から受ける利益が大きければ大きいほど、自分の福徳と功徳は大きくなり、将来の智慧も最も高くなります。目先の利益に囚われず、真実をあるがままに観察し、自分の未来と最大の利益を考えるべきです。

菩薩の福徳は阿羅漢の万倍・億倍・無量倍です。なぜなら菩薩は生々世世にわたって衆生と共にあり、身振り手振りの間に衆生を利益し、同時に千万倍・億倍・無量倍の福徳と功徳を得るからです。だから菩薩は大富の長者であり、その富貴は世のすべての人々が及ぶところではありません。福徳と智慧が円満に具わった時、八相成道して天人師・仏世尊となるのです。

——生如法師の開示
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