意根は深く細やかな我であり、神様は一切の法をすべて我とみなすので、当然一切の法は意根である末那識の用に帰するのです。神様は五陰を我とみなすので、五陰の作用は神様自身の作用であり、第八識の功能作用を神様自身の功能作用とみなし、六識の功能作用を神様自身の功能作用とみなすので、一切の法はすべて第七識である意根の用に帰するのです。しかも神様は生生世世滅することなく、一切の果報も当然神様が受用するのです。神様は一切の時において「我、我、我」とあり、非常に伶俐な識心であり、習気と煩悩が一身に集まっています。どんな事でも、意根である末那識の参与がなければ成し遂げることはできず、参禅もまた同様です。意根が主となって参禅を決定しなければ、意識は参じることができません。それゆえ参禅という法も、また意根の用に帰するのです。意根を発動させれば、すべての事は事半功倍となります。意根と多く事実を並べて道理を説き、神様に一切の法がすべて無我であることを証得させれば、意根が道理を明らかにし、すべての事は根本から解決され、成仏に至るのです。
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