衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年07月01日    水曜日     第1 回の開示 合計2438回の開示

夢は煩悩の変化を示すことができる

修行が意根に達した時、意根の無明が軽減され智慧が増長すれば根本を変えることができ、多くの世間法と出世間法を次第に円満に処理できるようになる。故に修法は必ず意根まで深く入り込まなければならない。なぜなら意根は主導する識であり、身口意の行いを決定し、業種と果報を決定するからである。意根が了別する法は極めて多く、事が未発生あるいは発生直後の段階で、事前に主宰し決定を下し、対策を考え事柄を処理することができる。これにより我々は一切に対処する際に円融無碍となり、周囲の環境・人事・物理と次第に調和し、より多くの衆生を度化できるようになる。

もし意根まで修行が及べば、無明が少しずつ減少し、貪瞋痴は次第に淡薄化して意根が変化する。意根の貪瞋痴煩悩が減少淡薄化すると、夢境を通じて顕現する。例えば普段意根がある法への貪執を止めようとする時、対応する心の働きや考え・願いが生じると、如来蔵はこれに呼応して夢境で示すのである。どのように示すのか。貪瞋痴は心の汚れを表すが、心の汚れは物質色法の汚れた境界で表現される。心が清浄になり汚れが減少すると、その人が置かれた環境が全て汚穢に満ちている様子が示される。外界がより汚穢であるほど、心から排除された煩悩が多いことを意味し、内心は以前より清浄になったことを表す。境界は清浄ではないが、かえって心の清浄さを引き立てるのである。

故に夢境はまた一人の修行の程度を示すものであり、貪瞋痴煩悩が軽減されたか、内心が次第に清浄になりつつあるかを表す。もちろん悟前と証果前のこの種の染めの排除は、証果後の貪瞋痴の降伏・消除とは一定の差異がある。証果前において三十七道品を修める過程では、戒定慧の修学により煩悩は確かに一部降伏され、心は以前より清浄になる。これは悟前及び証果前の戒定慧修学の結果である。さもなくば戒定慧と三十七道品の修学は基準に達せず、貪瞋痴の障りが依然深刻で、証果と明心を成就できないのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

意根が夢の中と外の一切法を了別します

次の記事 次の記事

執着する果位と証果もまた我見である

ページのトップへ戻る