勇施が重罪を犯して無生を悟る物語は、勇施菩薩が出家して具足戒を受けた後、殺戒と淫戒という二つの重戒を犯し、命終後は地獄に堕ちて苦しむべき運命にあったことを語っています。自らの因果応報を恐れた彼は文殊菩薩に救済を求め、文殊菩薩は彼を仏のもとへ導きました。仏は勇施菩薩に対し「勇施比丘という存在はあるか」「勇施比丘が殺した人は存在するか」「殺人という事実はあるか」と分析を提示されると、勇施菩薩は直ちに思惟を深め、心を開悟して真の菩薩となり、単なる我見断ちの初果を超える境地に至りました。仏に縁した勇施菩薩は地獄に堕ちるどころか菩薩として覚りを開き、三悪道の業を全て免れることができたのです。
世尊が勇施菩薩に無生の理を説かれた際、催眠法を用いられました。当時勇施菩薩は極度の恐慌と恥辱に心乱れていましたが、仏は彼の心を安定させ、人無我を観じさせることで行為の主体を追究するよう導かれました。最終的に勇施菩薩の意根が無我の理を確認し行為者を証得、我見を断つとともに心を明らかにしたのです。仏自ら催眠を施す縁に遇うには、どれほどの善根と福徳が必要であったか。我々も福を修め、将来仏に遇って催眠を受け、地上菩薩として聖人となるべきです。
また『大涅槃経』で世尊が阿闍世王の心の結びを解かれた際の我見を断つ教えは極めて優れたものです。父王を殺した阿闍世王は報いを受けて心乱れていましたが、仏に謁見して業を消滅させられ「父という存在は実在するか」「汝は実在するか」「父殺しという事実はあるか」と問われ、思惟の末「なし」と答えることで無根信を証得しました。初果や初果向には至らなかったのは、父殺しの業障が覆いとなったためです。
これも仏が衆生に用いる催眠法であり、福徳ある者だけが遇える縁です。故に福徳は最も重要であり、自己中心で福を修めぬ者は、一言で言えば愚かと言わざるを得ません。
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