衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年06月28日    日曜日     第2 回の開示 合計2432回の開示

私見と我執の様々な現れ

もしある人がひたすら自分らしくあろうとし、必ず人とは違う存在であり、独自の行動を取り、あらゆる人々の指図や手配に従わず、いかなる事柄にも順応することを拒むならば、この人物は我見を断じた無我の人でしょうか、それとも我執の特に強い人でしょうか。心中に自我を抱く者は、自己の感覚や感情を重視し、自らの特権や属性を気にかけ、自己の独自性に固執し、大衆の中に自らを溶け込ませることを拒み、自我を隠し滅することなく、心に堅固に我を執着し、捨て去ろうとしません。いかなる人の要求にも従順でなく、管理や手配を受け入れず、指導に服さず、かつ自律できない者は、非常に我見の強い人です。たとえ自律できたとしても、依然として我見の重い人です。

我執を断じ尽くした大阿羅漢である大目犍連は、悟りを開いた後、内心に全く自我の存在感がなく、完全に衆生の心に随順しました。衆生が彼にどうあって欲しいか望めばその通りにし、望まないことは決して行わず、たとえ衆生の要求が横暴で道理に外れていようとも、いささかの不平もなく従い、決して逆らいませんでした。我見を断じた後は無我の人となり、内に自我もなく、衆生相も寿者相もありません。しかしひたすら自分らしくあろうとする者は、これと正反対ではないでしょうか。まさに正反対です。我がないのに、どうして我を作り出す必要があるのか。これは我見と我執を増長させる行為であり、よって我見我執による生死の流転は尽きることなく、わがままな者は必ず苦しみを味わいます。

自己の存在感を強く主張し、衆生のいかなる意思にも従おうとしない者は、強烈な自我主義者です。決して柔軟にならず、譲歩しない者は、我の性質が非常に強い。すべてを己に及ばずと見なし、人に対して言葉遣いが鋭い者は、皆我執の甚だしい人々であり、我執の強い者は我見を断つことが困難です。もしある人が常に「私が正しくあなたが間違っている」と主張し、是非を厳格に区別し、譲歩や順応を知らず、厚かましく寛大さを示さないなら、それは我見我執が非常に深刻な人であり、菩薩のような衆生に随順する心性を持ち合わせていません。

もしある人が生きる上でひたすら自己の感覚を気にかけ、内心の快適さを追求し、奔放で拘束を受けず、周囲の状況や世界のありようを顧みず、いかなる制約も受けないなら、この者は我見我執が非常に重く、極めて深刻な状態にあります。この世で我見を断つことは非常に困難でしょう。

全ての人は常に自らを振り返り、内心で自省と自己点検を続けなければなりません。自省と自己点検を実践するには、自らの内面世界により多く目を向ける必要があります。あらゆる心の動きを観察し検証し、道にそぐわない心の動きを見つけたら、速やかに修正し消し去り、放任してはなりません。これが修行です。真の菩薩は、世俗に流されることもなく、また世俗に逆らうこともありません。この中間のバランスをどう取るかは、菩薩の修養と智慧、巧みな手段にかかっています。一般的な菩薩でさえ、これほどの巧みな処世の智慧を持ち合わせておらず、世を渡る上でいくらかの障害を抱えています。

——生如法師の開示
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