問:雷峰は我見を断じたのでしょうか?彼の心にはまだ私がいるのでしょうか?己を捨てて他者を救い、勇敢に義に就いた人は我見を断じたのでしょうか?心にはまだ私がいるのでしょうか?
答:仏法とは仏に学び修行して仏となる法であり、世俗の善法や人間界の善法は仏法ではありません。外道にも善法は存在しますが、解脱の理を明らかにしない限り、善法も衆生を解脱させることはできず、ただ人天の福報を得るだけで、その報いが尽きれば依然として三悪道の生死流転を免れません。生死流転を避けるためには、善法の生死の束縛を観行し、善法を空と観じて心に善法を執着せず、初めて解脱を得ることができるのです。
また解脱を得る主体は意根であり、意根が五陰身に対する一切の我見・不如実見・不如理見を全て滅除し、五陰の中のいかなる法をも我あるいは実体と見做さなくなってこそ、初めて解脱の望みが持てます。我見を抱いたまま善法を実践すれば、依然として生死の束縛を受けるのです。真の解脱を得た真実の自性は永遠に善心を持たず善法を行わず、悪心を持たず悪法を行わず、世俗心を持たず世俗法を行わないため、これら一切の法に束縛されない、まさに解脱した心なのです。善法やいかなる法に偏執しても、解脱を得ることはできません。
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