衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年06月22日    月曜日     第4 回の開示 合計2420回の開示

解脱と自在とは何か

一切の法を修習する目的は、あらゆる法の空性・仮性・中道性を見抜き、自心に智慧を得させるためである。そうして一切の境界に対して心空無礙となり、功徳受用を得て、世間の煩悩から解脱するのである。

或る者は問うだろう:解脱に何の役割があるのか? 解脱に何の役割もない。解脱とは束縛から離れて自在となることである。解脱に苦はなく、籠から放たれた鳥が自在に飛び回るが如く、罠を脱した猛虎が山上山下を自由に駆け巡るが如く、手綱を外された野馬が広い天地を縦横に駆けるが如し。また或る者は問うだろう:自在に何の意味があるのか? 自在にも何の意味もない。ただ「我」という束縛のない感覚、いや感覚さえない状態である。感覚があればすでに自在ではない。故に「用いない」が最上なり。用いて何を為す? 用いて何の益がある? 有用なるものは全て重荷であり束縛であり、苦そのものである。

苦からの解脱を求めるなら、日々自らに問うべきである:我が飯を食うのは何のためか? そして答えよ:色身を存続させるため。再び問え:色身の存在に何の意味があるのか? 答えよ:生き続けるため。更に問え:生きることは何のためか?... 根掘り葉掘り問い詰め、砂鍋を割るまで追求し、決して自分を安易に赦すな。その後は智者は智を仁者は仁を述べ、各々己が見解を披瀝するに至れば、境界は紛然と顕れ、思想は躍如として紙上に現れ、差異は自然と明らかとなる。自己を反観し、反省を重ねれば、次第に修道の道に入るだろう。日々このように自らに問い続ければ、いつか必ず覚る時が来る。もはや貪着せず、執着もせず、暢やかに自在解脱し、煩悩なく、遂には自らが超然として物外に超越し、洒脱なる境地に至るのである。

——生如法師の開示
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