仏子よ、菩薩摩訶薩には十種の慢業がある。何等が十か。すなわち、師僧や父母、沙門・婆羅門、正道に住み正道に向かう者たち、尊ぶべき福田の所に対して恭敬せざるは、これが慢業である。あるいは法師が最勝の法を得て大乗に乗り、出離の要道を知り、陀羅尼を得て契経の広大なる法を演説し、休息することなくするが、その者に対して高慢の心を起こし、及び説かれる法に恭敬の念を生ぜざるは、これが慢業である。衆会の中で妙法を説くを聞きながら、肯って嘆美して人をして信受せしめざるは、これが慢業である。過慢を起こすことを好み、自ら高ぶって他を蔑ろにし、己が過失を見ず、自らの短を知らざるは、これが慢業である。過々慢を起こすことを好み、徳ある人を見て応に賛すべきも賛せず、他が赞叹するを見て歓喜を生ぜざるは、これが慢業である。法師が人に法を説くを見て、これが法なり、これが律なり、これが真実なり、これが仏語なりと知りながら、その人を嫌いまたその法を嫌い、自ら誹謗を起こしまた他をして謗らしむるは、これが慢業である。もし諸の菩薩がこの慢業を離れれば、十種の智業を得る。何等が十か。すなわち、業報を信解して因果を壊さざるは、これが智業である。菩提心を捨てず常に諸仏を念ずるは、これが智業である。善知識に近づき恭敬供養し、その心尊重して終に厭怠なきは、これが智業である。法を楽しみ義を楽しんで厭足することなく、邪念を遠離し正念を勤修するは、これが智業である。一切の衆生に対して我慢を離れ、諸の菩薩に如来の想いを起こし、正法を愛重すること己が身を惜しむが如くし、如来を尊奉すること己が命を護るが如くし、修行する者に諸仏の想いを生ずるは、これが智業である。身・口・意の業に諸の不善なく、賢聖を賛美して菩提に随順するは、これが智業である。縁起を壊さず諸の邪見を離れ、闇を破り明を得て一切の法を照らすは、これが智業である。
『大方広仏華厳経』
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