修行の真の着手処は、小乗の四念処経こそ実修の入り口であり、坐禅三昧経も同様であります。大乗の父子合集経は世尊が父王に諸法を夢の如く観行させたもので、理論のみを説いております。これは初級学人を度する入門方法であるため、相似的に夢の如き理解にとどまり、証得には至りません。
大小乗の修行地図につきましては、まず観行によって我見を断じて証果を得た後に参禅するのが順序でございます。参禅の方法、我見を断ずる方法、修定の方法は既に説かれました。我見を断たずして参禅すれば成果を得られず、参禅が成就しなければ如幻観はおろか、禅宗第三関や陽炎関の如夢観も、後の地上の菩薩の修める法も及びもつきません。資料を求めて薫習はできましょうが、如何なる修行も薫習の域を出ず、決して実証できません。修行の次第と道筋は明らかで、まず定を修め理論を学び、次に観行して我見を断じ、証果後に参禅して心を明らかにします。これらを達成せずして語ることは無益です。大根基・特大根基の人でなければ修行を飛躍させることは叶わず、仏菩薩や阿羅漢の再来者に限られております。
初地以上の菩薩は小乗仏法を完全に通達し、大乗は一部を通達し、仏は全てを通達されます。実証なき理解は永遠に通達とは称せず、一法も通ぜず、如何なる智慧の境地にも至りません。転依につきましても実証なきままでは叶わず、第八識を実証して初めて漸次転依が可能となります。転依が一部成功し、心性が変化し転識得智すれば、既に初地以上の菩薩でございます。凡夫が転依を語るべくもなく、心には貪瞋痴が充ち、最初の我見すら断たず、肥大した我執が厳然と覆い蔽う状況で、何を転依できましょうか。
禅定なくして念仏も定まらず、呪文も定まらず、呼吸観も持続せず、基本的な禅定さえ修め得ぬ者が、如何にして五蘊無我を観行する力を持ち、我見を断じ、参禅して心を明らかにできましょうか。心を明らかにせずして他を語ることは、実に隔たりが大きすぎます。
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