衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年05月26日    火曜日     第1 回の開示 合計2358回の開示

定慧相生の三昧の境地

この境地は粗浅な禅定から智慧を引き起こし、智慧から深い禅定を生じ、深い禅定から深い智慧を生じ、三昧に入って大智慧の境界を開くものである。

座禅台に座り足を組み、数度深呼吸して気を丹田に沈め、心が静まった後、頭を空っぽにし、空の頭の中がさらなる空であることを観じる。心がさらに静寂を深めた後、疑情が生起する。この疑情とは現在解決すべき疑問、例えば「色蘊はなぜ空なのか」「勝義根はなぜ空なのか」「六塵はなぜ虚妄なのか」「六識はなぜ幻なのか」などである。毎回一つの簡素な疑問のみを携え、定慧が不足する時は貪り多く深く求めず、さもなくば定力退失し智慧も失われる。

このように疑情を抱いたまま、急いで参究せず、意識を動かさず、思惟せず、ただ疑問を凝視する。これを続けるうちに定力が次第に深まり、一定の時至れば自然に心動き、この問題を明らかにしようとする。これが意根の勢いを蓄えて動く状態である。もし明らかな動きがあればそれは意識の動きゆえ、必ず制止し、意識の浅い思惟は事に益なし。意根の心動きは極めて秘奥で観察困難、深淵を極めるが、実際の問題を解決し甚深の智慧を開く。

意根の念いには言語なく、文字なく、音声なく、静寂神秘なり。徐々に一点の明火が現れんとし、微かに発し、脳のスクリーンに光明が現れ、問題の答えがまさに出んとする。そして朦朧と一点現れ、さらに一点現れ、次第に多くの答えが溢れ出んとするも未だ明確ならず、依然朦朧としているが、既に光明と信心を得る。

さらに深定を続け細やかに秘かに参究すれば、思路次第に明瞭になり、心次第に明朗に、次第に清澄に、次第に明らかになり、脳は透明明晰、内心歓喜に満ち三昧に入る。ついに答え尽き心に明らかになり疑問なくなり、三昧より出定し、意識に過程全体を思惟整理させ、内容を整え論理を厳密にし、意根が再確認して事を終える。定慧円融無碍となる。

この三昧力をもって一切の疑難を究め尽くし、一切の無明を破れば、成仏の期あり、まして菩薩や阿羅漢たるはなおさらである。ただ衆生の福徳が備わらぬことを憂う。福徳が不足すればするほど福を生じ難く、定を生じ難く、慧を生じ難きは悪循環なり。如何に突破すべきか、各人の思惟に俟つ。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

身業、口業、意業の三者の関係とは何ですか?

次の記事 次の記事

いかなる人も仏法を学ぶことは盗法には該当しません

ページのトップへ戻る