衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年05月25日    月曜日     第1 回の開示 合計2357回の開示

身業、口業、意業の三者の関係とは何ですか?

どのような業が防ぎやすく、どのような業が最も防ぎにくいのでしょうか。どのような業は粗くて断ちやすく、どのような業は微細で断ちにくいのでしょうか。どの業を先に断つべきでしょうか。

身口意の三業行はすべて意根によって支配され、調達されます。身業は六識の行為造作であり、口業は六識の行為造作であり、意業は意識の心行心所法と意根の心行心所法に分かれます。

身行と口行は心に支配され、心がなければ身口業を造作できません。身口業は六識が造作し、六識は意根の指図を受けます。しかし意識が理を明らかにすれば意根を抑え込み、強制的に身口業を造作しないようにできるため、身業が最も断ちやすく、口業はそれに次ぎ、意識の心行は断ちにくく、最も断ち難いのは意根の心行です。

意根は非常に抑え込み降伏させることが困難であるため、意根の意業は貪瞋痴が絶え間ないのは必定です。ただ意識が理を明らかにし、因果を知ることで、身口が悪業を造作しないよう抑え込むのです。もし意根の煩悩が重ければ、身口も抑えきれず、必ず悪業を造作します。

したがって身体で殺生・偸盗・邪淫を造作しないのは比較的容易で、口で両舌・妄語・綺語・悪口を造作しないのもやや容易ですが、最も難しいのは意根であり、貪瞋痴の念を抑え込むことができず、断除するのはさらに困難です。

ある人々は、身体で戒めを守るのが困難で口で戒めを守るのも難しいと見るや、借口して「私は意業を守ればよい。心が清浄で意業を犯さなければ、身口がどうなっても戒を犯したことにはならない」と言います。これは倒錯した考え方と行いです。もし身体の造作さえ制御できないなら、なおさら意根の煩悩の念を制御できず、口業の造作さえ止められないなら、なおさら意根の煩悩の念を止められません。

意根の煩悩の念を止められるのは三果以上の聖者に限られます。凡夫がどうして直接意根の意業を守り、意根を清浄に保って戒を犯さないようにできましょうか。

小乗の五戒・八関斎戒・出家比丘戒・比丘尼戒は一般的に身口の悪業を戒めることを主とし、身口が犯さなければ心中に邪思邪想があっても戒を犯したとはみなしません。大乗の戒である梵網経菩薩戒は主に心の在り方を戒め、心を修め、ついでに身口も戒めます。瑜伽師地論の菩薩戒は、すでに煩悩を断じた地上の菩薩が守るべき心の戒であり、すべて衆生の利益を最優先とします。衆生を利益できるならば、身口は小乗の戒行と一致しなくてもよく、清浄な意根の心と一致していれば良いのです。意根が小乗戒律に背かなければ、すべて衆生のための心行が大乗菩薩の心行となり、大乗菩薩戒律の規範に適います。貪瞋痴の煩悩を断じていない凡夫や賢位の菩薩は、私心煩悩があるため瑜伽師地論の菩薩戒を受持することができません。

——生如法師の開示
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