仏は王に言われた。「その通りである、その通りである。愚かな凡夫は、聞くことが少なく智慧がない。好ましい触れ合いを愛楽し、心に染着を生じる。このような業を造る。身業三種、口業四種、意業三種。彼の業を造作すれば、刹那に遷り滅する。この業が滅した後は、東方、南方、西方、北方、四維上下、中間に依って住むことはない。命終の時に至れば、先に作った所業を見、心の中に現れる。ちょうど目覚めて夢中の事を憶うが如し。最後の識が滅すると、自らの業が現前する」
衆生が造る業行が滅した後、どこへ行くのか。東西南北四維上下中間に依って住むことはない。業が消滅し存在する場所を見出すことはできない。もし業行を貯蔵する場所があれば、大変なことである。どこかにこれらの業が蓄積されれば、いつか必ず現行する。業が付き従う者が不幸となる。業は存在する場所がない。来るにも跡なく去るにも影なし。業行は存在する場所がないが、寿命が尽きる時、この世で造った業のすべてが心の中を速やかに閃き、意識心が感知でき、分別して明らかとなり、心に全て了知され、一つも漏れることはない。その時自らがどこへ行くべきかを知る。故に親族が自らを業障から解脱させることを切に願うが、既に言葉を発することができず、表現できない。中有の身になっても親族に告げようとするが、陰陽隔たり通じず、二つの世界の者、言葉通ぜず。
識が滅した後、この世は終わり、人生という夢に終止符が打たれる。今思えば、現実生活もまさに夢の中の如し。六識が滅した後、業に随って流転する。意根が五陰身を求めれば、阿頼耶識が呼応して中有の身を現起する。極善極悪の者には中有の身がない。極悪人は地獄に堕ち、中有の身なく、この世の息絶えるやいなや地獄身が現起する。極善の者死後、天人の色身が現起し、直ちに天界に生じて福を享ける。地獄身が現れれば、たとえ悪業を悔いても懺悔補救の機なく、中有の身にあっては尚懺悔可能で、親族の補救も可能なれど、中有なきは叶わず、業種は定まる。但し覚りある者地獄にあって地獄身をもって懺悔し、力強く、心力盛んなれば地獄を出づることもある。福報大なる者歿後、地蔵菩薩地獄門前に待ち受け、懺悔または仏法の偈頌を教え、共に誦すれば地獄業を消滅し地獄を出づ。菩薩戒を受けたる者地獄に堕ち、犯した戒律を知り、心に懺悔すれば業を滅し地獄を出づ。
故に我々は平常の修行において、多く福を積み、智慧を修めよ。悪報を受ける時、解脱の機会多く得ん。ただ福徳を欠き、法を用いず、自らの業行を懺悔することを知らざるを憂う。多く経典を聞き法を聴けば、解脱の智慧多く得るであろう。
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