衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月03日    水曜日     第3開示 合計869開示

達磨大師の説く理修と事修による入道方法

外縁を絶ち、内心の喘ぎ無く、心を墙壁の如くすれば、道に入ることができる。これは達磨大師が述べた言葉である。この言葉には二つの解釈があり、一つは修行中の禅定の境地を指し、もう一つは第一義諦を暗示している。第一義諦の観点から言えば、真如理体である如来蔵には外も内もなく、外縁に左右されず、いかなる法にも攀縁しない。一切の塵境を了別せず、全ての境界の善悪是非を知覚しないため、自心に思慮も思想も知見も見解も存在しない。それゆえ、一切の外法は心に入ることができず、心の内からも思想・見解が生じない。如来蔵の心はあたかも墙壁の如く、内外を通じず、内外の区別もない。このような如来蔵の体性を了知した後、これを参究し証得すれば、ここより道に入るのである。これが理による入道である。

一方で、事による入道、すなわち禅定を修めた上で定中において参禅し如来蔵を証悟する方法がある。この定は色界初禅定でもよく、初禅以前の欲界未到地定でもよい。この定に達し心念が集中した状態で、公案や話頭を参究し、参透すれば開悟する。具体的には、禅定を修めて外界の色塵・声塵・香塵・味塵・触塵に攀縁せず、心もまた他の法塵に攀縁せず、妄想を起こさず、追憶せず、雑乱に思惟しない境地に至る。心を墙壁の如く修め、貪瞋痴の煩悩も無関係な六塵も侵入できず、一つの法に専注して、真如の法・如来蔵の法を思惟参究し、一つの公案または話頭を参ずるのである。因縁時節が具足した時、答えを見出し法理を明らかにして真如心体を証得する。

話頭としては「死屍を引きずっているのは誰か?」「念仏しているのは誰か?」「食事をしているのは誰か?」「歩いているのは誰か?」などがある。あるいは経典中の一節、例えば『楞伽経』で仏が説いた「機関木人の如く、機発すれば相起こる」を参究してもよい。この言葉は学人が真に悟ったか否か、悟りの正誤を検証できる。誤って悟ればこの意味を理解できず、『維摩詰経』の「菩薩の挙足下足ことごとく道場より来る」という句の意味も理解できない。話頭は数多くあり、自己の根基に契合するものが最良である。総じて、このような禅定は現代では修めにくい。唐宋の時代には大多数がこの定を得ていたため、悟道は極めて速やかであった。

参禅は必ずしも坐して行う必要はなく、行住坐臥の中でも参禅でき、随時随所で参ずることができる。心念が集中し、余念なく、境に触れ縁に遇う時、随時に悟入できる。古今の悟道した祖師の大多数は坐中で悟ったのではなく、坐中では悟りにくい。ある者は人の一言を聞いて悟り、ある者は音声を聞いて悟り、色を見て悟る者もあれば、香を嗅いで悟る者もいる。彼らは皆、参禅がある程度まで進み、偶然の機縁で触発されて悟道したのである。師匠の開示を聞いて悟る者も多く、師匠の一拳・一棒・一喝によって悟る者もおり、各人の悟りの縁は異なるようである。参禅も一定の境地に至って初めて可能であり、定力が不足すれば強いて参ずるべきではなく、無益である。定力が欲界未到地定に達し、行住坐臥において心が乱れず思惟を保ち、一つの境界に専注できる状態こそが参禅の最良の機縁である。この時参禅すれば疑情が生起し、疑情が解決されれば速やかに明心開悟する。

——生如法師の開示
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