衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年03月24日    火曜日     第1 回の開示 合計2229回の開示

花報と果報

花は未成熟の果実であり、結果に至る前の段階である。当然ながら果実のような栄養価はない。果実は花の昇華であり結晶であり、その栄養価は花より高い。仏教では往々にして花果を以て善悪の業報を喩え分かつ。善悪の業報は花報と果報に分かれ、花報とは現世で受ける報いを指し、果報は来世において業縁が熟して受ける報いを指す。一つの業行に花報があれば必ず果報があり、花報がなくとも果報は存在する。花報が大きければ果報は小さく、花報がなければ果報は最大となる。

報いは酒を醸すが如く、長く熟成するほど芳醇になり、また銀行預金の如く、長く置くほど利息が増え報いも豊かとなる。善業においては、善業を造作する者が貧窮すれば、花報を早急に得んと望む。急ぎ求め眼前で享受せんとする。福徳が不足しているため、急いで報いを受ける必要があるからだ。ある者は無知ゆえに、あるいは善業を行うに際し現世の利益を求める心持ちで、ただ花報のみを願う。かくして花報を得た後、来世の果報はあるかもしれぬが、極めて微少なものとなる。

悪業を造作する者にとって、花報が早く大きければ果報は遅く小さい。もしその人に良心があり道理をわきまえているなら、甘んじて花報を受け入れ、悪業の影響を速やかに消滅させ、後世の果報の苦しみを免れんとする。ただ因果を信じぬ無知の者こそ、あらゆる手段で花報を避け、悪業を隠蔽しようと僥倖を求める。

もちろん善業が非常に大きければ、自然と花報が現れる。人の求めずとも、後世の果報もまた大きい。悪業が甚だ大きければ同様に花報が現れ、避けようもない。善悪ともに必ず報いあり、ただ時節因縁が具わるを待つのみである。

——生如法師の開示
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