原文:また阿難よ。如何にして六入が本来如来蔵の妙なる真如性であるのか。阿難よ、即ちかの目玉が凝視して疲労を生ずる者、目と疲労とを合わせて、ともに菩提なるものなり。凝視して生ずる疲労の相は、明暗の二種の妄塵を因として、見る作用が其中に発し、この塵象を吸収して、見性と名づく。この見性はかの明暗の二塵を離れて、畢竟として体無し。
釈:阿難よ、なぜ六入が本来如来蔵の妙なる真如性であるのか。すなわち、目が物を見つめて生じる活動相・労作相・運行相において、目は眼根であり、労相は行蘊であるが、これらともに妙菩提の運行によって現れた労触相である。眼根は明暗二種の虚妄なる塵境を縁とし、色塵に触れて、その中に眼の見性を生じる。見性がこれらの塵境を吸収して現象を現じ、これを「見性」と呼ぶ。この見性は明暗二種の虚妄なる塵境を離れれば、本来何らの体も持たない。
仏陀は初めに六入が如何にして如来蔵の妙真如性であるかを説かれた。これは六入全体が如来蔵より生じたものであり、如来蔵の功能的属性であることを意味する。六入の中に如来蔵の作用を発見し、如来蔵を証得できるのである。眼根と意根の活動相・労触相こそが妙真如性であり、生じた見性も妙真如性である。さらに見性を生じさせる明暗の縁も妙真如性である。衆生の見る所・触れる所・用いる所はすべて妙真如性であり、一法として妙真如性ならざるはない。如来蔵を証得することは実は難しくない。至る所に如来蔵の影がある。ただ衆生自身の業障の深浅、見性を証する因縁の成熟度、菩薩性の有無、戒定慧の具足度こそが難所なのである。
原文:かくの如く阿難よ、この見性が明暗より来たらず、根より出でず、空より生ぜざるを知るべし。何となれば、もし明より来たらば、暗に従って滅すべき故に、暗を見ることはあるべからず。もし暗より来たらば、明に従って滅すべき故に、明を見ることはあるべからず。もし根より生ずれば、必ず明暗無かるべし。かかる見精は本来自性無し。もし空より出づれば、前に塵象を眺め、帰りては眼根を見るべきなり。また空自ら観るならば、何ぞ汝が入りに干渉せん。故に知るべし、眼入は虚妄にして、本来因緣にあらず、自然性にあらざることを。
釈:阿難よ、この見性が明暗の二相から生じず、眼根からも生ぜず、虚空からも生じないことを知りなさい。もし見性が光明から来るなら、暗が来れば見性は消滅し、暗を見ることはできなくなるはずである。もし暗から来るなら、明が現れれば見性は消滅し、明を見られなくなるはずである。もし眼根から生じるなら、明暗の相が存在しないはずである。このような見精は本来自性を持たない。もし虚空から生じるなら、前方の塵象を見る際に、戻れば眼根を見るべきであるが、実際は見えない。また虚空自体が見るなら、どうして眼根と関係があろうか。ゆえに眼入は虚妄であり、本来因縁によって生じたものでもなく、自然性でもなく、如来蔵性であることを知るべきである。
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