原文:真如実観を学ぶ者は、心性が不生不滅であることを思惟し、見聞覚知に住することなく、一切の分別の想いを永遠に離れ、次第に空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処などの定境界相を超え、相似の空三昧を得る。相似の空三昧を得る時、識・想・受・行の粗い分別相は現前せず。ここより修学し、善知識の大慈悲に守護され育まれるが故に、諸々の障礙を離れ、勤修廃れず、展転して心寂三昧に入る。この三昧を得て已みて、即ちまた一行三昧に入る。この一行三昧に入り已みて、無数の仏を見、深広の行心を発し、堅信の位に住す。
釈:真如実観を学ぶ者は、本来の心性が生滅せず、見聞覚知に執着せず、世俗の境に対する見聞覚知を離れ、一切の分別境界の念想を永遠に捨てるべきである。この真実の心性を認識した後、七識の心念が次第に空浄となり、禅定が深まり、四禅を超えた外道定(空無辺処定・識無辺処定・無想定・非想非非想処定)に入り、相似の空三昧を証得する。
相似の空三昧は定境を主とし、智慧において未だ真如の空性を証得せず、意識が空性の認知により心清浄寂静となり、意根を制伏して得られる定境である。意根は未だ空じておらず、意識単独で認識する空である。これも一種の三昧であり、定と慧を有するが、慧力は未だ不足している。故に意識の受蘊・想蘊・行蘊の粗い分別は現前せず、微細な受想行蘊の分別は依然として続く。
この境界に修到した後、顕密に善知識と諸仏菩薩の守護を受け、自らの善根を増長養護する。業障の遮りを避け、精勤修行を持続させ、中途廃退せずに済む。
このように用功を続ければ、次第に真の空性に入り、空空寂寂たる心を見て心寂三昧を証得する。これは相似空三昧を基に更に観行を深め、慧力が増強され、空性心を観ずる智慧が究極に至り、意根が薫習を受け入れ、心空寂静となって現れる三昧である。般若智慧が具足する。
心寂三昧を証得すれば、一行三昧に入り、心心念念時に処に自性仏を見、十方諸仏を見る。即ち一切衆生の如来蔵を見、衆生の如来蔵が五陰に作用することを明らかにし、甚深広大な菩薩行を発起し、三宝への堅固なる信位に住して退転しない。念仏により一行三昧に入る場合、相において十方諸仏が目前に立つを見る。これは独影境であり、他人には見えず、自ら深甚な三昧中にあって行住坐臥全て定中にあり、本心を明らかにし般若智慧を有する。
道を修め明心証悟するには、この三種の三昧を経なければならない。禅定無くしては明心証悟は不可能であり、第一層次の三昧も現れず、意識の粗分別相も断ち切れず、心攀縁定まらず、意根を降伏できず、相似の空にも相応しない。然るに未だ第一層次の相似空三昧に至らぬ多くの者が、悟りを得たと自認するのは、真に自らを誤るものである。
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