禅定において観行すべき法を実証するためには、禅定を深く入り、周囲的一切を忘れ、内心には语言文字声音のない法義のみ存在し、深い疑と深い思を保持し、参でありながら非参、思でありながら非思、不断でありながら不离、有でありながら若无、杳杳冥冥の状態で、拿しようとしても拿不起、扔しようとしても扔不掉。このような工夫を成せれば、実証は早晚のことです。禅定なしの思惟を観行と呼ぶことや、意识の浅思の結果を証と見做すことを切忌してください。
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