衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年02月18日    火曜日     第1 回の開示 合計2143回の開示

論理推論は現量に属するか

問:意識が五蘊無我を観行する際、論理的思惟分析推理作用がある場合、これは現量でしょうか?

答:意識が思惟観行する時、比量と非量だけでなく、現量もあります。三量全てが意識の智慧を体现します。

意識が五蘊を観行する時の論理的思惟分析推理にも三量があります。智慧が高ければ高いほど現量が多くなり、観察される事実が増え、証拠が充分、理由が充足となり、意根を熏染しやすく、实证に近づきます。

意識が証拠を探求する際、証拠が充分であれば現量が良くなります。意識は意根のために証拠を搜集するもので、現量の証拠は説得力があり、意根が接受できます。理由も充分です。意識の非量による想像幻想は証拠不足で、意根は接受できません。このように、意根の思量には引导や推动作用が起きず、实证不可能となります。

現量は必ずしも自身が経験したことを指すわけではありません。他人の起こした事、全て众生身上に起こした事は現量観察に属します。事実に符合し、道理が通达、論理が严密であれば良いです。しかし、四大种子のような問題は現量観察できません。智慧不足のため、熏習と非量として算作されます。諸佛にとっては現量です。各人意識の智慧は有限なので、非常に多くの事実と真理が現量観察できず、实证は非常に困難で、比較浅い真理しか实证できます。

ある人にとって観行する法は比較困難ですが、他の人にとっては比較容易です。差異は意識の智慧不同と意根の智慧不同にあります。四大种子については諸佛は当然即時に現量観察できますが、私たちは不可能です。理に順って思惟推断し、熏習作用を起きます。無始劫以来、众生は生死輪廻の中で無数の生死苦を経験しました。全て現量ですが、众生は現量観察できず、感知不到、経験教训を吸取しないため、生死輪廻不断、苦受不绝となります。

——生如法師の開示
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