大迦葉は頭陀行を修し、樹下に一座し、決して一つの樹の下で三日を超えて坐禅することなく、三日目には必ず別の樹に移った。これは樹に対する執着を生じ、生死の繋縛を招くことを恐れたためである。俱解脱の大阿羅漢の心は既に解脱を得て、何時何処にても無余涅槃に入ることが可能であるのに、何故なお斯くも自らの心を看護するのであろうか。
看護する心は意識であり、覚悟性が強く、理性的である。看護される心は意根であり、覚悟性と理性に乏しく、遍計所執性を具え、あらゆる法に執着を生じ易い。凡夫の意根は、出遇う法に即ち執着するものと言えよう。何故意根は斯くも容易に執着するのか。
意根は無始劫以前より無明深く、法理を知らず、法の実質と本質を見ず、ただ法の表相を知り、仮相を究竟と執取する。また無明愚痴の故に自らの愚痴を知らず、自らの見解を執取して捨てず、故に意根は教化し難く、その認知と習気習慣を転換すること容易ならざる所以である。
意根の習気習慣に就いて言えば、意根は自らの心に相応する事物に接触するや、三度を超えれば容易に習慣を形成する。所謂る習慣とは、意根の慣性の力であり、前に思惟し行い想ったことに順じることを好み、柔軟に通変せず。意根の或る習慣は、必ずしも意根の好む所にあらず、接触多ければ、機械的な思想と心行を形成する。
何故事根に機械的な慣性あるか。意根は愚痴にして思惟を善くせず、接触成熟し時間の長き法に遇えば、自動的に受け入れ、執取してそのまま行い、習慣と自然性を形成する。意識六識に対し、即ち自覚なく何かを言い行い想い、制御不能となる。意根が頑ななる故、如何にして容易に制御できようか。況んや意識も覚悟せず、制御の念頭すら無きをや。
世に元来道無く、歩む人多ければ即ち道となるが如く、意根も元来習慣無く、接触多く常に行えば即ち習慣となる。一旦意根に習慣が形成されれば、容易に除去改正せず、無意味なる事と雖も、意根が一旦習慣となれば、後もそのまま行い誤まらず。彼は思惟せず、この事に意義有るか、為す価値有るか、如何程の代価を払うに値するか、これらを全く顧みず、此の点より見れば、意根は愚痴にして智慧劣れるなり。
意根の愚痴性と習慣形成の容易性より観るに、意根は遍計所執性を具える。もし智慧性あらば遍計所執性無く、智慧あれば執わず、況んや遍計所執せんや。意根の愚痴性により、善法に反って習慣形成容易ならず、執着を生じ難し。もとより善法に執着するも生死の繋縛にして解脱得ず。但し修行には次第有り、善を以て悪を治むるは修行の初歩、悪法を去り善法も留めず、心空にして道に相応し、道力具足す。
無始劫前、意根の置かれた環境は悪法多く善法少なく、或いは善法無きが故に、意根は悪法に相応し善法に相応せず、彼は悪法に慣れ善法に慣れず。善法を以て薫染するは困難なり。然れども苦海輪廻を脱せんと欲せば、如何に困難なりと雖も善法の薫染を堅持すべし。堅持するに足れば即ち勝利なり。
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