衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年11月17日    日曜日     第1開示 合計2039開示

解と証の区別

解は意識による解であり、意根は解せず知らない。証はその両方がともに知りともに解し、ともに愚でないことである。一つの法について、意識が解したというのは、その然(しから)んとするところを知ることであり、意根が証したというのは、その所以(ゆえん)を知ることである。然を知るというのは、表面現象を知るだけで内実を知らず、比較的浅薄で粗雑な知であり、観察力がないため、具体的なことや実質、細部などを問われるとたちまち何も答えられなくなる。法について粗略で粗雑なものしか理解できず、より細やかに、より深く、より具体的な内容を深く観察し理解することができない。それゆえ法をはっきりと語れず、まして徹底しておらず、ぼんやりとして足掻くにも届かないような感覚を人に与える。所以を知るというのは、法の内在する原理を知り、表裏に深く入り込み、法の実質と来歴を知ることであり、観察力が強く、法の具体的な細部を了知でき、思路が明瞭で、理路が徹底しており、論理が厳密で綿密であり、智慧が強大である。それゆえ、一人の法に対する認識の程度を見るには、その人の法の記述が粗略な表面現象にとどまっているか、それとも具体的な細部まで深入できるかを見ればよい。具体的であればあるほど、実証の程度が深いことを示し、智慧も深い。粗略であればあるほど、実証がなく、実証から遠ざかり、智慧が浅く、それだけ意識の解であって、意根の働きがないのである。

——生如法師の開示
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無垢識 (amala-vijñāna)こそ真の我である

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『楞厳経』第五巻二十五聖円通法門の憍梵鉢提

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