大乗菩薩が参禅によって得る実証は、いずれも第八識を自ら証得したものであり、第八識の功能作用を現前で観察できるものであって、推理・推論という形式によって第八識の存在や功能作用を推し量るものではない。推理や推論は実証ではない。六祖は五祖から金剛経を聞いていたときに悟りを開き、真如第八識を実証して、ただちに第八識を現前で観察することができ、そこで五つの「何期自性 (svabhāva)」を説いたのである。その他の禅宗の祖師たちも、開悟のときにはみな真如第八識を実証しており、推理・推論に頼った者はいない。実証によってのみ、現量で第八識の功能作用を観察し、般若 (prajñā) の大智慧を獲得することができる。ひいては般若の智慧が満足するに至ったときには、第八識の極めて多くの功能作用を現前で観察でき、それは手のなかの庵摩羅果を観るがごとくであり、手のなかに庵摩羅果があると想像するのではなく、庵摩羅果が真実に存在するのを眼で見るのである。第八識の証得もまた同様であって、第八識があると想像・推理し、神様がどのような功能作用を起こすかを想像するのではなく、現前で第八識が五蘊十八界のなかで営む种种の作用を観察することができるのである。
推理と想像は意識の功能作用であり、実証は意根による親証に関わる。意根の実証は現量として呈現されるものであり、当座に見るのであって、何らかの法に出会ったときに改めてその法のなかの第八識を努力して思惟 (manasikāra/manana) する必要はない。現に思惟しているものは信頼できず、意識が滅するときには思惟することができなくなり、第八識は見えなくなってしまう。とりわけ命終以後は、意識がないときには第八識を思惟することはできず、第八識の存在を見ない者は凡夫であり、凡夫の身で投胎することになるので、一生かけて修めた功徳は徒労に帰し、誠に惜しいことである。それゆえ、第八識の功用を現前でただちに当座に見ることができず、推理によって第八識の存在を証明するようなものは、いずれも証悟ではない。
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