衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年10月30日    水曜日     第1 回の開示 合計1998回の開示

七識もまた無所得である

第七識はあたかも何かを得たかのように見えます。世間の五欲や六塵を手に入れたかのように思えますが、実は何も得てはいません。愚痴と無明によって、強引に何かを得たと錯覚しているだけで、実際には何も得られず、得るべきものもないのです。空しく苦労し、空しく計算し、あらゆる策略を尽くした結果、結局は空しい一生、空しい輪廻を過ごすのです。

これらの真理は禅定の中で静かに思索を深め、長い時間をかけて検証しなければ、自分が何も得られないことを悟ることはできません。仏法を学び修行するとは、自らの無明を破り、自らが無所得であることを認識し、その後は何も求めず、何も得ようとしない境地に至り、解脱して仏となることです。

究極的には無所得であると悟った時、第七識は心空無為となります。しかし無為であってもなお、自他を利益するために行動しなければなりません。行動する際に心が空であるとは、何も求めず、個人の私利私欲を考えず、個人的な目的や動機を持たず、自己の得失や利益・成否を考慮しないことです。このような境地であれば、たとえ多くのことを行っても、あたかも何もしていないかの如く、自ら功績を感じず、功績に驕ることなく、自己満足せず、他者や団体との利益交換を行いません。自己中心を捨てることは執着を捨てるよりも容易です。まず自己利益を求めない境地に至り、その後で執着を離れることができます。個人の私利を考慮しなくなって初めて、徐々に無所得と無所求の境地が実現するのです。

——生如法師の開示
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