衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年10月15日    火曜日     第1開示 合計1968開示

雑阿含経第一巻(一三)

原文:如是我闻。一时。佛住舍卫国祇树给孤独园。尔时。世尊告诸比丘。若众生于色不味者。则不染于色。以众生于色味故。则有染着。如是众生于受.想.行.识不味者。彼众生则不染于识。以众生味受.想.行.识故。彼众生染着于识。

诸比丘。若色于众生不为患者。彼诸众生不应厌色。以色为众生患故。彼诸众生则厌于色。如是受.想.行.识不为患者。彼诸众生不应厌识。以受.想.行.识为众生患故。彼诸众生则厌于识。

诸比丘。若色于众生无出离者。彼诸众生不应出离于色。以色于众生有出离故。彼诸众生出离于色。如是受.想.行.识于众生无出离者。彼诸众生不应出离于识。以受.想.行.识于众生有出离故。彼诸众生出离于识。

诸比丘。若我于此五受阴不如实知味是味.患是患.离是离者。我于诸天.若魔.若梵.沙门.婆罗门.天.人众中。不脱.不出.不离。永住颠倒。亦不能自证得阿耨多罗三藐三菩提。诸比丘。我以如实知此五受阴味是味.患是患.离是离故。我于诸天.若魔.若梵.沙门.婆罗门.天.人众中。自证得脱.得出.得离.得解脱结缚。永不住颠倒。亦能自证得阿耨多罗三藐三菩提。时。诸比丘闻佛所说。欢喜奉行。

解釈:世尊は比丘たちにこうおっしゃいました。もし衆生が色陰に対して何の味わいも感じず、愛着せず喜びもしなければ、色陰に貪染することはありません。衆生が色陰に対して喜び、愛し、味着するがゆえに、色陰に貪染し耽着して味着するのです。もし衆生が受想行識の四陰に対して何の味わいも感じず、愛着せず喜びもしなければ、受想行識の四陰に貪染することはありません。衆生が受想行識の四陰に対して愛し、喜び、味着するがゆえに、受想行識の四陰に貪染し耽着して味着し、縛られて解脱を得られないのです。

比丘たちよ、もし色陰が衆生にとって生死の過患や苦患とならないのであれば、衆生は色陰を厭患したり、色陰から遠離したりすべきではありません。色陰こそが衆生の生死の過患と苦患の因であるがゆえに、衆生は色陰を厭患し、色陰から遠離しなければならないのです。もし受想行識の四陰が衆生にとって生死の過患や苦患とならないのであれば、衆生は受想行識を厭離したり、受想行識から遠離したりすべきではありません。受想行識の四陰こそが衆生の生死の過患と苦患であるがゆえに、衆生は受想行識を厭離し、受想行識から遠離しなければならないのです。

比丘たちよ、もし色陰が衆生にとって出離できないものであるなら、衆生が色陰から解脱できないのであれば、衆生は色陰からの出離を求めるべきではありません。しかし色陰は出離可能なものであり、衆生は色陰から解脱できるのですから、衆生は色陰を出離し、色陰から解脱しなければなりません。同様に、もし受想行識の四陰が衆生にとって出離できないものであるなら、衆生が受想行識の四陰から解脱できないのであれば、衆生は受想行識からの出離を求めるべきではなく、受想行識からの解脱を求めるべきではありません。しかし受想行識の四陰は衆生にとって出離と解脱が可能なものであるのですから、衆生は受想行識を出離し、受想行識から解脱しなければならないのです。

比丘たちよ、もし私(世尊)がこの五受陰の味着の過患、苦患、そして出離遠離の要道を如実に了知していなかったなら、私は諸天、魔天、梵天、沙門、婆羅門、天と人の大衆の中で、解脱して出て行くことができず、六道の生死輪廻を離れることもできず、永遠に顛倒の中に住し続け、まして独りで阿耨多羅三藐三菩提を証得することはできなかったでしょう。比丘たちよ、私がこの五受陰の味・患・離を如実に証得したがゆえに、私は諸天、魔天、梵天、沙門、婆羅門、天と人の大衆の中で、独り解脱を証得し、輪廻を出離し、生死の苦患を離れ、一切の無明結縛を解脱し、阿耨多羅三藐三菩提を証得したのです。

以上が、佛陀の説かれた五陰の身に対する味・患・離です。ここで修行の重点となるのは、いかに如実に反観して自分の五受陰への愛着と味着を知り、いかに如実に観行して五受陰の生死の過患を観じ、いかに如実に修行して五受陰から遠離し、生死輪廻を出離するかということです。これには非常に強い反観力 (pratyavekṣā-bala) と生死への覚悟の心が必要であり、しかも自分の心を厳格に管理し、自分を甘やかさず、貪愛と煩悩を調伏し、出離の心と修道解脱の心を起こすことができなければなりません。

——生如法師の開示
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