衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年10月12日    土曜日     第2 回の開示 合計1965回の開示

雑阿含経 第1巻(一一)

かくのごとく我聞けり。一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、「色は無常なり。もし因と縁とによって諸々の色が生ずるならば、それらもまた無常なり。無常なる因と無常なる縁によって生じた諸々の色、どうして常住であることがあろうか。

かくのごとく受・想・行・識もまた無常なり。もし因と縁とによって諸々の識が生ずるならば、それらもまた無常なり。無常なる因と無常なる縁によって生じた諸々の識、どうして常住であることがあろうか。

このように諸比丘よ、色は無常なり。受・想・行・識もまた無常なり。無常なるものは苦なり。苦なるものは我にあらず。我にあらざるものは我の所有にあらず。聖弟子はこのように観ずるにおいて、色に厭離し、受・想・行・識に厭離す。厭離するものは楽しまず。楽しまざれば解脱す。解脱知見を得て、『我が生はすでに尽き、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになされ、自ら知る、後に受くることなし』と。時に諸比丘、仏の説きたまうところを聞き、歓喜して奉行せり」。

釈:世尊は比丘たちに説きたまわく、色蘊は無常なり。若干の因と若干の縁が和合して初めて一切の色蘊が生ず。さればこれらの因と縁もまた無常なり。無常の因と無常の縁によって生じた一切の色蘊、どうして常住不滅の性質がありえようか。

同様に、受蘊・想蘊・行蘊・識蘊もまた無常なり。若干の因と若干の縁が和合して初めて一切の受蘊・想蘊・行蘊・識蘊が生ず。さればこれらの若干の因と縁もまた皆無常なり。無常の因と無常の縁によって生じた受想行識、どうして常住不滅でありえようか。

ここにおいて諸比丘よ、色蘊は無常なり。受蘊・想蘊・行蘊・識蘊も皆無常なり。無常なる法は苦なり。苦なる法は我にあらず。我にあらざる法は我の所有にあらず。聖弟子がこのように思惟観行すれば、色蘊に対して厭離心を生じ、受想行識に対して厭離心を生ず。厭離とは喜ばず愛楽せざることなり。愛楽せざれば解脱し、五蘊の束縛を受けず。心解脱したる後は解脱の知見を具足し、自ら知る「我が生はすでに尽き、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになされ、自ら知る、後に受くることなし」と。

定中の観行においては、色蘊がなぜ無常法であるかを仔細に全面的に思惟すべし。いかなる現象が色蘊の無常性を顕現するか、色蘊にいかなる表現が無常を示すかを観ずべし。意識が一つの現象を観行するごとに、この現象を凝縮して一つの意味とし、脳中に懸けて意根に直接思量せしむ。意識は思惟を少なくし、あるいは思惟せず、心中に深く確信が生じ、この種の現象がまさに無常であることを確認するに至る。一つの現象ごとに確認を重ね、全ての無常現象を思量し尽くすまで続ける。言葉文字なき深き思量の後、内心に確信を固め、すなわち意根の確認を得る。

この過程は長時を要すべし。意識の思惟観行はさほど時を要さぬとも、意根の法に対する思量は長時を要すべし。朝に夕べに弛まず努力を重ね、他人の知らざる中に実践を続け、実際の問題を解決し、実証に至る。ただ意識の思惟段階に留まり、すでに得たりと覚えるときは、自らの道業を損なわん。

一つの小問題をもってこのような用功の方式を訓練し、意根による参究を鍛錬すべし。意識の用功と意根の参与する用功の差異を多く体会すれば、真実の精進用功の要領、すなわち実証の要領を掌握し、あらゆる法に対する実証を保証し、意識の解釈に留まらざるを得。この要領を掌握すれば、生生世世にわたり無窮の利益を受け、地上の菩薩に修するまで、八地以上の菩薩となるまで、常に利益を受くべし。

次に再び受蘊・想蘊・行蘊・識蘊がなぜ無常であるかを思惟観行すべし。いかなる現象が受想行識の無常を示すかを、全面かつ具体的に、可能な限り詳細に観ずべし。一定の段階に至れば、意根に直接これらの無常法を思量せしむべし。言葉文字なき隠微なる思量の方式による。

五蘊は無常なり。五蘊を生ずる因と縁もまた無常なり。再び五蘊を生ずる因は何かを思量すべし。いかにして無常なりや。五蘊を生ずる縁は何か、なぜ無常なりや。五蘊は何によって生ずるか。前世の心が寂静ならず、涅槃に向かわず、世間にて業行を造作し、業種を蓄積す。業種が縁熟して現行に現れ、中有において意根が胎に投ずれば、五蘊は生ず。心が涅槃寂静に向かわず、身口意の行を造作するが故に因となる。しかし因あるも縁なければ、業種は生根発芽せず、五蘊は生ぜず。縁とは何か。人中に生ずるには必ず父母の縁を要し、同時に人身を得る業種が成熟せねば、意根は胎に投ずるを得。

五蘊を生ずる因縁は皆無常なり。されば無常の法が生じた法、どうして常でありえようか。必ずまた無常なり。続いて無常の法は皆苦なることを観行すべし。内心真実に苦を感受し、五蘊が苦なることを確認す。次に苦なるものは我にあらず、我の所有にもあらざることを観行すべし。内心に大いに確信を生じ、一定の動揺を受け、五蘊に対し疏離感を生ず。三果に修するときは、五蘊に対し厭離心を生じ、束縛と覚え、もはや貪愛せず、初歩的に心解脱の功徳を受用す。四果にて執着を断じたる後は、心境さらに解脱し、遂には命終して無余涅槃に入る。

意根は自らの善悪の心行を修証し得るか。意根は五塵境を縁とし得るか。意識の別境慧に依って、初めて諸々の境界に対し種々の思量をなす。いかにして自らを返観する能力ありや。いかにして諸法を思惟する能力ありや。意根が意識の別境慧を離るれば、何ごとも為し得ざるか。

——生如法師の開示
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