このような人々の心には我あり、他者あり、四相(我相・人相・衆生相・寿者相)あり、事理あり、心は少しも空(くう)ならず、すべてが我執の性質に満ちております。このような者は修行に適しません。さらに不合理な手段を取ったり、手段を選ばず、常に他人を踏みつけようとするならば、その者は破滅します。普通の凡夫ではなく、我見を断じた証果を得ることはできません。
異分子を排除する行為は身口意の行為に属し、不適切な身口意行であります。我見を断じた者はもはやこのような行いをいたしません。初歩的な無我の境地に達し、心が無我と相応じ、粗重な悪業行を造作しなくなるからです。故に人が証果を得たかどうか、道を有するかどうかを判断するには、七識の身口意行から判断すべきであり、具体的であればあるほどよろしい。これ以外に判断基準はございません。第八識の心行から七識の証果と修養を判断することはできず、また口先だけの言葉からも判断できません。行為こそが人の証量と修養を最もよく表し、口先で偽りを造ることは最も容易で、虚言をもって人目を欺く事例は数知れません。時に身の行いにも偽りが混じることはありますが、継続的に堅持することは極めて困難であります。
凡夫の性質は欲望にも現れます。仏法を学ぶ者の中には、学べば学ぶほど欲望が増大し、急いで証果を得て心を明らかにしようと、手段を選ばず、如何なる果報でも良しとし、偽りの果報さえも構わず、ただ証果明心の名声さえ得られれば良いと考える者がおります。名声を得た後は直接に人々の上に立ち、あらゆる利益を得んと欲望は膨張し、如何なる手段で果報を得ようとも構わず、あらゆる方法で果を得ようと致します。これは実に奇怪な考え方で、このような考えこそが最も強大で堅固な我執そのものであり、どうして我見を断じて証果を得る希望がありましょうか。仏法を世俗の名利を得る道具とし、利欲に目が眩んでおります。利に蔽われた者は、暗黒と輪廻から脱することは困難です。要するに、衆生の凡夫性は語り尽くせず、嘆息を禁じ得ません。このような覚りなき状態では、輪廻も当然の成り行きであり、憐れむべき者には必ず憎むべき点がございます。
18
+1